細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

エコノミーの次元としても、公的な次元としても、そして近くにいる隣人の問題としても

 最近はいわないのかもしれないが、以前介護職をしているとき、よく誰かにあなたはどんな仕事をしていますかと訊かれると「いま介護してます」と答えた。そう答えると相手は「大変ですね」とか「立派なお仕事ではないですか」ということが多かった。
 もちろん立派だったり大変だったりするのかもしれないが、少子高齢な上に障害者だって世の中にたくさんいるわけなのに、「立派」という扱いは変だと思った。僕だって嫌々バイトを探しているうちにあまりうるさく面接されない障害者施設を選んだのだった、職歴がなく、社会に否定的な印象をもっていた僕がギリギリ働いたらなにかあるかもしれないと思ったのが介護の仕事だった。

 社会はもちろん経済的な仕組みでできているので、介護や福祉は非効率部門のように思われていたこともあるだろう。1999年だから小泉内閣が誕生するわずか数年前である。
 もちろん介護は今でこそかなりメジャーというかそうならざるをえない分野になった。老いた親をもつ人が増えたためだ。そして家族の規模も小さくなった。
 介護保険が動くかといわれていた中で障害福祉ましてや知的障害福祉は、世人から見るなら、超マイナーなのだろう。厄介な問題はすべて家族で抱え込んでいる。もちろん親は大事な存在なのだが、親はほぼ子供より先に亡くなるため(少子高齢社会だから逆も増えてくるだろう)親自身も本人もその先を生きる場所がない。
 
 だから知的障害者の介護をしているからといって、俺自身特別なスキルをもった人間ではないわけだし、誰でも隣人として考える必要がある公共的な話なのだが、そうなっていない。自分のようなバイトも続かない人が支えるはめになる。最近、公共事業などが削減され職を失った人の転業の先として、介護や農業が推奨される。それはある意味仕方ないことなのだが、しかしそうやってまたそういうふうに誰かに押し付けることで誰かが関わりを避けることができていると思わざるを得ない。

 経済の問題であると同時に、これは「生きている人間」ひとりひとりの障害をもつ人を具体的に扱う事象なのだということが忘れられている。エコノミーの次元としても、公的な次元としても、そして近くにいる隣人の問題としても考えられないかなと思っている。
 とりもなおさず自分が精神病になって、特殊な社会生活のパターンに入り込んでいったから、余計にそれは深刻なことだ。自分のような厄介な人間を誰が相手してくれるだろう。そういう不安を私はいつも持っている。
 経済上の自由主義を私は嫌いではない。どちらかといえば、実は好きな考えですらある。とはいえ、経済的な自由主義はどちらかといえば、極度に自由を志向するものだけでなく、極度な干渉(主に政府、権力)を避けるささやかな主張の部分もあったはずである。(ハイエクなども全体主義を批判して、あるいはスターリン官僚独裁による社会設計思想を批判して「自生的秩序」という社会の自己組織化的な力の涵養を唱えたはずだ)
 しかしファシズムのような仮想敵を失えば、自由主義が自己目的化して市場にうまく組み入れられない問題をはねのけることはありえる。(そうでない経済学もたくさんあるのだろうがよくわかっていない。アマルティア・センなんかはそうかもしれない。)

 話がずれたけれども、私はしばらくは福祉の仕事はあまりにもタイトなのでできないかなという展望をもっている。それどころか自分の潜在的なニーズは、自分が困った時に話し合える人や社会資源につなぎやすく、具体的な生活の諸問題を解決して、より自分の生の本質に近づくということにある。そのひとつに文学もある。恋愛も、遊びも音楽もある。友人も。例えばそれが得られなかった25くらいまでの私や、それの多くを失った25以降の私は何者だったのか。(もちろん今は多くのものを復興しつつあるが、しかしもとのじぶんとは変わっているはずだ)
 とはいえ、それらを問い、追い求めることはは遠い道のりだから、とりあえず金を稼いで、あまり親や周りに頼らない経済圏をつくることが大事なのかもしれない。困った時は自分は親や仲間に頼ってもいいと思っている。しかし金銭や人間関係の親密圏の確保は大変センシティブな問題だから、慎重にことを進めていかないと家族問題や、人間関係に骨がらみにされているということもないとはいえない。
 そのためにも「現実的に」ものごとをひとつひとつ形を付けていく練習として就労が意味を持つかもしれないとも思う。
 なにしろ障害厚生年金3級では、大人の自立した生活というか最低限度の生活を保障するには程遠い。ベーシックインカムが5〜8万円を想定しているというが、5〜8万円ではせいかつなんて出来るはずもない。親や親しい人に経済的に頼ることになる。それはとりあえずの次善的な安定の一方で関係に支配され、コンフリクト(紛争)を増やすリスクも持つことを意味する。障害者という問題はそういう関係から派生する二次障害によって複数のトラブルの被害・加害に入り込んでしまうことを指すと思う。これはグループホーム世話人時代から感じていたことだ。今も自分は家族とうまく話せないときがあるから。
 生活保護の額は世帯、年齢、地域にもよるが最低12〜3万円はもらえるはずだ。それが憲法25条には書いていないが日本の最低生活保障額だとするなら、それ以下やその額以下の不安定な収入の人はほぼ生活できていないということになり、国民年金満額でも年間80万弱であり生活保護費には遠く及ばない。生活保護の人が恵まれているのではない。それしか生活の安全保障がないのだから。それが国が義務を果たす最低ラインなのだから、生活保護は恵まれているなんて議論は破綻している。
 さてそれでお金に頼らない社会はどこか危険が伴う以上、どこかで賃金労働か、生活保障によって、ある程度の収入を世帯ではなく個人にいきわたるようにせねばならない。大事なのは世帯単位で生計を考える発想は危険だと思うのだ。こども手当てやベーシックインカムの議論が出てきて変わりそうだった部分がそこなのだが、「世帯」という考えに戻ると危険だ。一人が生きる生活や関係の必要やコストを経済学だけではなく考えたほうがいい。自分はなかなかそういう学問はおさえられていないけども。
 それと同時にしかしその仕事はどういうふうに位置づけられるか個人も社会も考えなければアノミー(社会的な無力感)は強まるばかりだ。自分は1996年に大学を放心状態で卒業しており、それ以来社会はデフレ状態であり、それはうまく改善されていない。
 社会を支える根底的な力は実はひとりひとりがなんとかやっていけるくらいの生活の糧がないと発生しない。それが私のように減っていて、学校や会社などの人間関係の中で疲弊した人は多いはずだ。そうでない関係のあり方がいるのだが。またこれは考える。