細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

自殺について

 最近は、死にたいとか、この世や人の世界から消えてしまいたいと思わなくなった。でも、5年くらい前までは、そういう衝動や思いが、断続的に吹き上がってきていた。
 なぜそういう思いが今はないかわからないが、いくつか福祉や医療や家族や人間関係での支えをなんとか探し出したのと、年をとって、積極的に「逃避したい」という思いが減ってきたのかもしれない。
 そういうわけだから、また働き出しでもしたら、「死にたい」と思うかもしれない。追い詰められる感覚によって思考が混乱し、無力化されるとそもそも人間は「死にたく」なるか「奴隷に」なってしまうかしかないのではないかと思う。
 
 つまりそういう異常な心身に悪い状況に自分を置かない、人を置かせないということくらいしか、僕自身はいえない。いじめられていたときは、もうどうしようもなくなって相手のいうことを聴かざるを得なくなる。しかし高校2年生くらいでもう愚弄される人生はいやだなと思って、本を読んだりするようになり、相手にもはっきりいえるようになって、いじめはなくなった。しかし、それからも、人間関係は続くので、大学生時代が一番「死にたい」というか人間仲間の構成する世界全体から逃避したい思いの頂点だったと思う。なんで死ななかったのかは知らないが、自分の愛する爺さんが亡くなったときに、なんとなく自分は生きていかなくちゃと思ったのだった。なぜか「立派なひとになりたいなあ」と妙なことを思いついたのだった。その思いつきしかすがるものはなかった。

その頃キルケゴールの「死に至る病」とか芥川龍之介の晩年の作品を好んで読んだ。キルケゴールからは、人間は厳密に「絶望する」ならば、「死んでも死にきれない」という宙吊り状態に陥らざるを得ず、思考好きの僕にはその結論が頼りだった。だって「死にたい」は、その本質に「生きる力」を置いているからだ。間違っているかもしれないがそういう読みだ。もっと大変な病にかかって実際自殺する人もいるから、自殺する人が愚かだといいたいのではない。ただ自分はそう思いながら生きることしかできなかったという慚愧の思いである。
芥川からは猛烈にその死にたい時のいかにも「弱った」心境が感じられた。心境は人によってちがうかもしれないが、僕の「死にたい」衝動は芥川の方に似ていて、太宰や三島よりではなかった。

しかし生きていかなくちゃといっても、就活するなんて恐ろしくて、考えるだけでしんどくなるので、実際だるくてしんどくてやってられんので、就活もしなかった。だってこないだまで、「死にたい」という思いに取り付かれていたのに、人と会ってニコニコ話すなんてできないやんか。まあこれでまだ、大学卒時点なので、(明日で)36歳の自分の今の時点に来るまであと14年ぶんくらいある。キリがないからこれくらいにしておく。

人間にはどうあがいても死んでしまうというか、勝手に事切れるという身も蓋もない、絶望的な、逆にいえば希望のある性質がある。精神科医でも、かならず患者に死なれたことがあるという。もちろん誰か知る人が死んだら、大きな衝撃を受ける。
生きているのは嫌なことだし、どうせ辛いことは多い。だから死にたいと思う人がいてもなんの不可思議もない。しかし友達や知り合いだけでなく誰かが死んだら一瞬心が寂しくなる。なぜだろう。ある意味で人間は誰しもいつのまにか消えてしまうからせめて呼びかけあうしかなく、人間はそのままではあまりにも壊れやすいから、どこかでその思いを絶やさないくらいしかできない。

もちろん人が恐い、人のいる世界は苦しい、あるいは仏教のようにショーペンハウアーのように生きることそのものが「苦」なのだから、そこから見れば生き抜くことはある意味でなりふり構わない面がある。ある意味暴力的だ。

ちなみに あまりにも死にたくなったら信頼しうる医師や福祉関係者に相談すべきである。だれでもいいが、まあまともな神経している人間のほうがいい。自分の場合それによってとりあえずは生き延びる方向に行き、自分がなぜそのような思いをいだかざるを得ない状況だったのか、今でもそうなのか考えられるまでにはなった。しかしまた傷んでくるならどうなるかは知らない。当分元気でいたいなとは思っている。イタイのは嫌だから。

多くの死は、恐らく必要な社会資源や関係性をつなげられれば、その人にフィットさせるような働きかけや合致があれば、防げるようにも思うのだ。誰にも愛されない人もいるだろうし、あまりにも孤独で死にたい人がいるのは否定できない事実かもしれない。ただ、実際その人の極度の精神的、肉体的疲労をマシにすることができれば自殺の多い状況は変わるだろうと思う。ただ人類が発展する目標を失って、未来を失いかけているという大状況はあまり変わっていない。しかしそんな大それた目標があったのかどうか。戦後だって、ものを作って売るしか国家目標はなかったはずだし。なぜならそこしか無難な目標はなかったからだ。

まだ読んでいないのだが、大野裕*1監修「地域における自殺対策」http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/jisatsu/dl/08.pdfという文書を見つけた。この文書は神奈川県横須賀市議会議員藤野英明さん(fujinohideaki (@fujinohideaki) | Twitter)のツイッターの発言で知った。

*1:ちなみに大野氏のこころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳は主治医から勧められた認知行動療法の本である。もしかしたら危機的な状態よりは回復途上の人なんかが使うといい本なのかもしれない。しかし自分がパニックや混乱しやすい人なら、心を静める習慣をつけるのにはどこかで役に立つと思う。