細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

岡村重夫の講演「地域福祉の思想」その1を読む

少し古いものだがたいへんおもしろい。

Page ON/サービス終了のお知らせ

まず基本としてここをおさえることは現下の社会構造におけるセーフティーネットの危機を考える際に今も重要である。

保護事業の処遇原則は、回復的処遇の原則といいます。回復的処遇の原則とは何かといいますと、貧困に陥った直接の原因を取り除くような処遇をするという原則でありまして、例えば障害のために労働することか出来ない、救貧事業で生活費だけを与えていたのでは、それはだめだという。いわゆるリハビリテーションの原則といいましょうか。
 生活扶助は提供しますけれど、それと並行して更生医療を給付する。更生医療が終われば生活機能訓練をする。生活機能訓練が終われば職業訓練をする。その次には就労へと行く。これが回復的処遇の原則であります。
 そのように貧困の直接的原因を取り除いて、貧困者を正常な国民に引き上げていくということが、保護事業の目的となった訳です。
 それが選別事業と言われるように社会的弱者に対する対策であって、一般国民とは無関係な訳です。それが保護事業の性格であった。ヨーロッパでいえば1930年代までそのようなことを行なっていた。
 日本はまだこの回復的処遇の原則をやっている訳なんですが、この回復的処遇の原則は一般の国民は関係ないんだ、弱い人、そういう人を対象にするのが保護事業の原則ですね。
 ところが,これは非常に評判が悪かった訳です。ことに第二次世界大戦の起こる頃から保護事業を止めるという声が各方面から上がってきます。なぜならば、保護を受けているということは、一般の国民より自分は劣っている弱者なんだと証明している訳ですね。だから皆嫌がる訳です。
 なるべく保護は受けたくないと、そういうことは,今の日本でも沢山あるんではありませんか。私はこのようなことを沢山経験しております。
 例えば私は大阪で里親運動、養子縁組のことを30年程前からやっておりますけれども、里親さんは児童相談所から手紙がくるのを嫌がります。児童相談所と書いてあるのを子どもに見せたくない、あるいは近所に知られたくない、もらい子だということが分かると嫌だ。そういうことがありましたから保護事業というのは嫌われます。
 それはなぜかというと選別処遇だからです。生活保護を受ける場合、ミーンズテストというのをやりますね。資産の状態はどうであるのか、収入はあるのか、というようなことを調査されて、いよいよどの法律でも救済することが出来ないから最後の手段として、生活保護をかけようということをやる訳です。だからこれは特に労働者の階級には非常に評判が悪い。
 もうひとつ保護事業の問題は、貧困に陥った直接の原因というものを非常に個人的原因に求める。例えば身体障害とか、精神障害とか、ところが実際の貧困問題は個人的な問題を原因にして起こる場合もありますが、それよりもはるかに大きく社会的原因によって貧困に陥るのだということが判ってきました。
 失業するとか,あるいは低賃金であるとか、そういうことを原因として貧困に陥る人の方がずっと多い訳ですね。ところがそれに目をつぶって個人的原因にばかり注目して、ただ回復的処遇ばかりするということは、非常に不都合であるということがだんだん分かってまいりました。
 そこでこういう回復的処遇を原則とする保護事業は駄目だということになりまして、全国民を対象にする。しかも貧困に陥った社会的原因に対する対策を講ずるような社会福祉でないとだめだ。全国民を平等に対象とする普遍的処遇の原則と全国民が貧困に陥るのを予防する対策でないといけない。それが福祉国家と言われるものであります。
(引用部分の黒字強調は全て石川による。以下も引用部分も同じです)

つまり日本の(生活)保護事業はどこかで過度の「自己責任」原則をもっている。あるいは社会のせいだということばかりに話がふれてしまう。それはどういうことかというと、日本人の倫理意識や何かの問題より先に、はっきりいって単純に仕組みがそうなっていかない。それは「主体」をどう考えるかということが抜けているからだと。岡村がいうときの「主体」は意外にも和辻の倫理学に根ざしていることが示唆される。

①世間であると同時に個人である人間
 我々は対象者と面接し観察するけれども、対象者も私たちを見ている訳で、見る見られるという関係であります。
 自然科学の人間観は一方的に観るだけです。しかし、私たちの福祉の現場ではそんな見方をしない訳ですね。見る見られるという関係、ワーカーが子どもを見る場合でも、子もワーカーを見ている。「この先生わかってんのかなー」という訳です。
 ことに知能の遅れている子どもたちを面接したとき、それを痛切に感じます。「いろいろテストしたりするけど あの先生,僕のこと、分かっているのかな」という。ところが、あの先生「分かってるな」と言うことになってきますと自分のあまり外に出さなかったものを出してくる。その出してくるものに対してこちら側が変な反応をすると、これは「アカンワ,あの先生落第や」ということになり、 ちゃんと対応すると「分かってるな」ということになってくる。
 私たちの人間援助の関係というのは、そういう風に対象者を単に一方的に客体化して観ているのではなく、見る見られるという関係、そういうことで人間を扱っていくのが福祉だと思うのですね。そこが人類学や社会学の先生と違うと思う。
 そのような経験から言いますとダーウィンの進化論とか、生態学での人間を客体化した人間観を採用することはできない、まったく違った見方をしなければならない、そういうことで私が若い頃影響を受けた本、和辻哲郎先生の昭和10年に出た本で『人間の学としての倫理学』というのがあります。
 これを私は若い頃読んで、非常な感動を受けました。
 単に見られた経験科学の対象、単に対象としての人間ではない、主体的人間というものがここではっきり出ている訳です。昭和10年のものです。この先生は私がたまたま大学で習った先生だったので、何回も何回も読みました。
 そしてこれを私は社会福祉の理論の中に取り入れました。
 そういう経験がありますので経験科学と違った哲学的な和辻先生の倫理学ですけれど、哲学的な捉え方ですね。
 つまり、主体としての人間というものを捉えようとするならば、それは単なる客観的方法では捉えられないのだという見方をしておりますので、この先生の人間観を取り入れている訳なんです。
 それを説明しますと、それは人間とは何かから始まって、方法としては解釈的方法、了解科学的方法であって、経験科学と異る方法であったドイツでは「文化科学」という言葉を使います。
 意味の了解をする行為的実践の主体としての人間というものは客体的な観察ではなくて、その人の行動なり、残した文化なり、言語なり、そういうものを手がかりにしてその意味を理解するという、そういう方法であります。
 ですから、例えば、和辻先生はこの本では言葉を捉える、まず「人間」という言葉から始まっていますが、漢和辞典を引きますと「人間とは世間である」と書いてあります。人間とは世間の意なり、誤まりて人の意にもちうると昔の『大言海』に書いてあります。それは中国のことであります。漢和辞典は中国のことですから違う訳です。
 日本では人間のことは「ひと」と言います。人間は人と同じです。その人という言葉はどんな意味であるかというと、和辻先生はいろいろ詮索しております。
 「人のことかまってくれるな」 「人のことほっておいてくれ」という「人」は自分のことを言い、英語ではI(アイ)です。しかし「人のふり見て我がふり直せ」という「人」は他人のことで、他人の様子を見て自分の行為、ふるまいを直せということであります。
 また、「人のうわさは75日」と言います。この「人」は社会の意味で、世間の意味です。
 日本では、人というのは個人で自分のことにも使うし、社会・世論のことにも使う。それをよく知らない人は 日本語はダラシない、英語ならIとかYouとかで語尾変化もするではないか。日本語は非常にルーズだと言いますが、私はルーズではないと思います。
 それはそういう言葉の中に人間、つまり主体的人間というのは個人でもあるし、社会でもある、世間であると同時に個人である。日本では「人間」と言う時、人間存在というものは個人でもあるし、社会でもある二つの性格、二重の性格をもっているという訳です。
 それが主体的人間の実態で、矛盾したものが同時に存在する。

日本語で表される「主体」としての「人間」は巷でいわれるように「曖昧」かというとそうではないと岡村は言う。日本の歴史の中でも、個人であり「関係的存在」(と私ならいうが)としてひとりの人間が捕らえられているという。
岡村のこの説が本当かどうか検証は置くとします。しかし単純に専門家がクライエントを対象化して「こうしなさい」という形では福祉なんてできないよって岡村ははっきりいっているんです。主体を捉える際に、社会を形成する起点であり、その「つなぎ役」としても捉える。こう考えないと民主制もないわけですから、おそらく民主制社会での法的な主体も視野に入れての議論となっているのだろうと思います。

つまり人間というものは二重性をもっているのです。その二重性という理論を私は借用いたしまして、昭和31年に『社会福祉学(総論)』というのを書きました。その時に社会福祉の場面で言うと、それを社会関係の二重構造ということにして説明していますが、その根拠は和辻先生の人間の二重性ということであります。
 つまり社会福祉でいう人間は、単に「モノ」としての人間を扱うのではありません。
 社会生活上の困難を取り扱うのが社会福祉でありますが、この社会生活の困難とは何かということであります。これは社会生活の基本的要求を社会資源なり社会制度を利用して、充足出来ない状態であります。
 つまり私たちは社会生活の基本的要求をどう充足させるかと言うと、例えば個人が病気になります、医療を受けようとすると社会制度・医療制度を利用する訳で、そうすると医療機関・病院は病人を診断して手術を受けなさいとか、入院しなさいとか要求します。これは制度の側からの要求であります。
 要求された個人は彼のもっている生活条件にいろいろ調整して「ハイ、入院します」というように要求を実行すると、その見返りとして医者の病気の治療が行なわれるという事です。
 私たちの生活というのは、個人と制度とこれを結びつける社会関係のこの三者から成立している。特に生活で大事なのは、社会関係です。個人と制度だけでは、生活は成立しない。生活というのは真に社会関係です。
 我々は制度を利用すると言っても、良く見ると非常に性質の違った関係、矛盾している関わりから成り立つ訳で、制度から要求するものは単一制度の視点から個人にある役割を要求するが、専門的に分化した制度は個人の生活(全体)を知りません。個人はいろんな条件を工面して実行する訳てす。つまり社会関係というのを良く見ると単純な関係ではなくて、個人に属する関係?個人的側面と制度の側に属する、制度の側によって規定される側面、入院するとか、治療するとか、制度の側によって規定される制度的側面とがある。
 私たちの生活に必要なもの、社会関係というものをよく見ると、この矛盾した二つの関係がうまく統合されて成り立っている。こういう関係を、社会関係の二重構造と言う。社会関係は単に制度からのみ規定されるのではない。個人の側からのみ規定されるものでもない。両者矛盾するものが入り交じっている。社会関係の改善というのは制度の側からもできるし、社会の側からもできる。

つまり何か社会のシステムを利用する、あるいはそれに参加するのでも、制度が全部やるのでもない。個人が全部自分でやるのでもない。「個人はいろんな条件を工面して実行する」といっていますが、まさしくそこの「工面」という部分、参加のプロセス、ここには統合や調整だけでなく抵抗もあると思いますが、そこにソーシャルワークは働きかけると。
どうするか。

いま一つ例をあげて説明します。例えば福祉六法が八法になって障害者福祉法も改正になったが、あれを見ると身体上、又は精神上の障害によって日常生活困難な人にデイサービスをするとか、介護をするとかのサービスをするんだというところが新しく改められた。私は身体上とか精神上の障害とか言うことは、それは医師の言うことで、福祉はそんな事でなくて社会関係での障害を問題にする訳です。
 例で言いますと、A君とB君という知能の遅れた青年を知っています。二人は養護学校を卒業しまして、A君はお父さんの勤めている会社に話をして就職させてもらった。単身で通勤する能力はありませんからお父さんが毎日連れて行って連れて帰るという、それで三年四年続いている。 私がその家に行った時、お父さんが病気したり、用事がある時どうするのか伺ったら、「イヤその時には職場の同僚の人が朝、家に迎えに来てくれる。帰りもその人が送ってくれるんです。」と、こう言うんですね。
 ですからこれで3年位になるけれど、欠勤しないでやっている。親が休んでも本人は出勤していますよと、だから日曜以外はいつ行っても留守なんです。そういうことを近所の人が見ている。だから日曜日には魚つりに連れていってあげようとか、何とか声かけてくれてどこかに連れていってくれる。
 一方、同じに養護学校を卒業したB君は、A君もB君も療育手帳には同じく「中度」だと書いてある。けれどもB君は何もしない、家でゴロゴロしている。その家は食料品店をやってますから店を手伝わせなさいよ、と親に言うんですが、「こんな者が店にきたら、お客さん皆帰ってしまいますよ。」「家では昔から全然店に入れません。」と言う。「ならば店に入れなかったらば、倉庫掃除するとか何かあるでしょう。何かすることを探しなさい。」と言うたら「あんなのに掃除なぞやらしたらやり直しをしなくてはなりません。ですからさせません。」と言う。B君は4才からそういう育ち方をしているんですね。
 A君とB君を比較しますと、知能程度は同じくらいです。法律上で言う知能指数は同じくらいですよ。しかし生活が全く違う。なぜ違うかというと家族関係とか、職場関係とか、友人関係、近隣関係という、いわゆる社会関係が違うから、生活が違う訳なんです。 そのところをしっかり見ないと、何か医者の真似みたいなことをしていては駄目だと思う。これを本人の社会関係の改善ということで申し上げておきます。

まさしく最後の部分ですが、「しかし生活が全く違う。なぜ違うかというと家族関係とか、職場関係とか、友人関係、近隣関係という、いわゆる社会関係が違うから、生活が違う訳なんです。 そのところをしっかり見ないと、何か医者の真似みたいなことをしていては駄目だと思う。これを本人の社会関係の改善ということで申し上げておきます。」といっています。

生活をよくするというと量を増やす、つまりお金を増やすとか、数値目標化しがちです。あるいは質を上げるときに、なんか「生き生き」させるみたいなよくわかんない目標になってしまう。でも、量とか質を満たしている基礎的なパイプ(感覚を含めて)が目詰まりを起こしていたら、その人の生活は「煮詰まり」「どんづまる」わけです。ですから、主体と環界がどういうふうにつながっているか、切れているかそこを見てそこのところを回りも当人も考える。そこが重要だと思うし、この議論は全く古びていないと思う。ひきこもりにしても、障害者支援にしても、またこれは健常者の就労とかそういうものにも適用できると思います。

今日は少し温故知新みたいな話になってしまいましたがたまにはこういうふうにソーシャルワークを復習するのもいいかなって思って。だって試験ではこういうのは詳しくは学ばないですから。