細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

取り組むということ

やはりなんというか、自分がひっかかっているけど意識化しにくいものを核にしてしか、研究とか創造みたいなことはできないんじゃないかなと思う。
その意識化しにくいテーマってのがある。そこに対して応答していくってのがホントの意味での「責任」(responsibility)ではないのかな?
だからいくら弁明とか説明とか、あるいは解釈をしてもそれは本当の意味では、言葉を発したとか、そういうことにならない。自分の何か一番ひっかかっていることをえぐりだして、差し出して、それに対して他の人がどう切実に真摯に対応するかを見ることでしか、議論の進歩はありえない。

それは学問や文芸だけでなく、仕事でも恋愛でもあらゆる領域がそうなんじゃないかと思う。自分が出来ているかは怪しいですけども。。

ただひとつ注意は、個人ではその作業は限界あるでしょうってこと。
まずしかし、自分が「一番ひっかかっていること」を探索する作業から始めるしか仕方ない。それは多くの場合明確な、clearなものではない。しかし始めは「曖昧な」(obscure)なものであっても、探索し、分節する中でそれは姿を現していく。それが作品化なのであって、その作品というのはあるプロセスの中で生み出されていくものであって。
例えば自分が好きな風景を描くとしましょう。そこに様々なものがヒントとしてある。それを拾っていくと、その風景を描かなくなるかもしれない。ちがうものを描いて様々に修練する必要が出てくる。だからいい仕事をしようと思えば、いろいろなものに首をつっ込んだり、どこかで誰かの意見というか言及(reference)は必須になってくる。
そうすると描くものや取り組みのありかた自体も変わってくる。

むかし大学で「一般教養」ってありましたけども、ああいうことが必要かどうかは置いておくとしても、世界にはいろいろあって、思わぬところでつながっているかもしれないよってのを学ぶ、自分の倉庫の中に入れておく必要があったからああいうものがあったんだと思うのです。例えば昔僕は数学者の森毅さんの本(一般向けの数学の歴史や社会論みたいな)を読むのが好きでしたけど、あれは大学入ったくらいだったかなと思う。でも森毅さんの本で止まってて、あれが好きだで止まってても困る。
もちろん僕は数学者ではないので、森先生の専門の本はまた意味が違ってくるけども。