細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

マイナーでまさしくホットな。されど、局所的な。

先日12月6日に「学校で教えたい授業シリーズ(大阪)学校で教えたい授業シリーズ(大阪) - 学校で教えたい授業シリーズ」に参加した。しかしその間、詩関係での作業があったり、親戚の伯父が亡くなったりとバタバタしていて、イベントについて書くことができなかった。

今日はデイケアの食事会なのだが昨晩頭痛や嘔吐があったため、大事をとって欠席した。頭痛は治まったのだが、どうも胃腸は弱っているようなので、今日はご馳走は食べられない。

さて、私は学校で教えたい授業シリーズで午前は「野宿者・貧困問題」のセミナーに参加し、午後は「セクシャルマイノリティ」のセミナーに参加した。そこで、日頃、はてなダイアリーを読んで刺激を受けている上山和樹さんとお会いすることも出来、よかった。


*以下の発言は私のまとめであり、必ずしも各発言者が話したものを完全に再現できていません。ご注意ください。

生田武志さんのお話は、フリーターズフリーの時も感じたけれど、具体的なお話とそこからの理論の作り方にある種の安定感を感じさせた。やはりよく練られた主張なのであり、こうして各分野の方と共同して企画を立ち上げるときに一応のまとめ役になるのは首肯できるものがある。
また大北全俊さんと朝来駿一さんのセクシャルマイノリティのセミナーは各グループに分かれてのディスカッションであった。大北さんは「性の問題について当事者とは、われわれ全ての人のことです。」といっていた。また「性教育というけれども、学校で教えるということには抵抗がある。なぜなら我々は、学校でも家庭でも社会関係の中でも様々な意味で性的な話題をたくさん刷り込まれ詰め込まれているじゃないですか。そしたらそれとどう関係をとるかが大事になってくるはずです」とおっしゃっていた。
これらの話を受けて、朝来さんの最後のパネルディスカッションでの話もある蓄えられた思考や経験を感じさせた。いわく、「僕らは性について教えるということはどこか違和感がある。それよりもそこにさまざまな人が存在している。様々な性の形態があるということをただありのままに提示していくことが大事で。それがすべてなのではないか。それ以上踏み込んで、性についてはこういう価値観が正しいとか間違っているとかいうのを僕らがいうのはどこか変だと思う」
そして、「人権というけれど、マイノリティの人権を守るって何だろうと。なぜなら、ゲイや様々な性的嗜好や傾向を嫌う人もこの社会に一定数いる。その人たちもそう感じる権利はあるはずです。だからどっちがどうという話で括りたくない。」
その上で、「しかし学校で教えられることというか学校が取り組めることが一つだけあります。それは同性愛や性に関する様々な困難を持っている学生は同じ学校や社会に必ずいるはずです。その人たちの半数近くは思春期に「自殺」を考えたことがあるという実態がある。つまり親にも友達にも話せない。先生にも話せないとなったら、その人は孤立する。これで命を落としてしまうひとがいる。だとしたら、学校に性的な困難やあり方で悩む子どもたちが悩みを話せる居場所を作ったほうがいい」と。

朝来さんの話には孤立したり問題をこじらせている人に届く何かがあるような気がした。

実はセクシャルマイノリティのセミナーに参加したとき、多くの方は性教育について勉強している教職員や学生、研究者の方も多く、自分は「精神障害」の人なのだと思って、自己紹介でもなんとなく自分がなぜここに参加しているかうまくいえずいたたまれなかった。

しかし大北さんのいうように社会関係の様々な場所に「性」は織り込まれている。またセミナーでディスカッションした人たちとも様々な話が出来「性」が話題に上ることは日常ではある意味「隠語」になっており、性について語るのは案外難しかった。

この世界の自明性を支える巨大なファクターである性をどういうふうな文法で語ればよいか。自分はそれについてきわめて貧困な言葉しか持たないことに気づいた。そしてそれは恐らく、現在の社会のあらゆる領域で同じことが起こっているのかもしれないと思った。

自前の言葉で何かを語ることを自分で縛り(自粛し)その結果、あふれるような外的な情報だけに曝されて互いを誤解しあっている。その結果目の前の関係性が豊かになるチャンスを捉えそこなう。自分は多くのことを見てないし、見えていないし、見ないようにし、自分の得意なことだけで処理していると思った。

それが自分の特性を活かすための妨げにもなっているのではないかとも思った。

もちろんセミナーのパネリストの中には自分にとっては物足りない、なんとなくちがうと思う発言をするパネラーもいた。私にとっては精神障害については、日々デイケアの人と付き合っているため、そしてそこで様々に話している面もあり、あまり新味がなかった。また女性労働について語る方の話は、どうも話が上滑りをしているように感じた。しかし関心を持ったので労働問題について後でILOの駐日事務所のサイトで、しらべてわかったことがある。日本はILOの条約が180以上ある中で、40数個しか批准していないことがわかった。もう時代からずれているものを批准から外すのは例外だが、多く、労働環境や雇用条件の改善についての原則などを盛り込んでいるものや移民労働者のことが外されている。
国際条約を加盟国が批准すると、批准した国は、その条約の趣旨に沿った国内の社会や法制度の整備をしなければならない。*1それを守れない場合、ILOからの勧告を受けることになる。一概にインターナショナルなものがすべて良いというつもりはありません。国際連合自体に様々な矛盾があります。しかしこれは入ってなかったの?ってのがかなりあるわけです。*2つまり、日本は国際的な目からも、国内の様々な人の声も受けない形で国家体制を存続させているということが公開されている情報ですらわかるわけです。
ILO駐日事務所 (ILO駐日事務所)

パネリストの赤羽さんは「女子差別撤廃条約*3について述べていた。そうなのである。他にも例がある。障害者権利条約*4や各種人権条約についても日本はその批准や勧告にしたがわないケースや大きいニュースとして取り上げられないケースがまま見られる。(こどもの権利条約はその意味で是非はともかくかなり大きなニュースになった)

つまり大北さんや朝来さんが語ったような目の前の関係の「人権」とは何かという問題とは、ちがう巨視的なレベルにおいても、私たちは「人権」についてまず議論の前提から考えるという作業を怠っている。人権というと、ある種の方面の人からは「左翼の権利要求」と吐き捨てる人もいる。また、逆にワンパターンの人権教育や啓発しかみられなかったという面もある。(自分の子供の頃がまさしくそうだったのだ)
しかし人権というと、特定の色合いのつく語彙なのだが、政治思想がもともと「権利」について考えるとき、それは社会の中で自分の生命や所有をどう守るか、シェアするかという今生きている喫緊のことなのだった。
政治思想でなくても、日々、自分の思想、関係、生命、財産はいつ壊れるかわからない中で、かろうじて「権利」という共通言語の元、守っている、守られている、あるいは壊れていく、壊されていくわけである。そう考えると大北さんや朝来さんは非常に「普通」の話をしていて、それは生田さんや他の方も山下さんも実は普通に周囲に存在する問題にコミットメントしているわけだが、それを聞くわれわれも、パネリストもどこかで、まだマイナーな「特別な」問題を語っているという意識があるのではと思えた。だからこそそれを憂慮して、このセミナーが開催されていると感じたのだが。

もちろんそれぞれ深刻かつこんぐらがった事柄なので、そこはケースバイケースになるわけだが、そのケースバイケースをどういう語り方や文脈の中で語るか、ここが非常に難しい。これをソーシャルワークでは「ケースワーク」という。自明な身の回りの社会問題がこの国では未だ「マイナー」枠になっていることについてパネリストの人たちも、聴きにいった人たちもまたそこにいなかった人たちもまだまだ考えることがあるんじゃないかと思えた。

全てのケース、問題には世界全体の鏡としての側面と、まさしくその都度取り組まねばならぬ個別の側面がある。そこをゴチャゴチャにしがちな私なのだが…そういえば上山さんもマクロの話とミクロの話は一応分けないととおっしゃっていた。私はしばらく時間をかけて、一応こういう感想に至ったのでした。

*1:もちろん国内法と国際法が一般にどちらが優越するかについては諸説あります。ただ批准をしたらば、それを国内法と必ず調整しなければならないのは確かでありますが、国際機関が作成したものを批准した場合、批難、勧告を受けることになります。だから批准しないのではないかと個人的には推測しています。http://dai18ken.at.infoseek.co.jp/kokusaihou/01-kouryoku.html

*2:未批准の条約一覧http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/legis/218/021814.pdf

*3:女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約

*4:障害者権利条約の批准と国内法の大改正を: 弁護士清水建夫ブログ