細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

わからんはなし3

昔から脳みそのどっかの留め金みたいなのが外れていたような気がしていた。もちろん、様々な人間の姿をみてその動きを真似たり、なぞったりするわけだが、どうしても人間というのは得体が知れない。
かつて人間は本能が壊れた生き物だという岸田秀の仮説というかドグマがあったような気がするが、やはりその「本能」という言葉の使い方がおかしいなと思っていた。
ほとんどの人間は私も含めて、自分にあたえられた身体とそこに書き込まれたプログラムを生きているというふうに思う。文化、環境、信号、空、海、紙幣様々な場所に様々なしるしが書き込まれている。
それに導かれたり騙されたり無視したりしながら生きるわけだが、それは己に内在する情報プログラムを発見し、遂行するためにそうするのだ。

人間は死んでもなお、情報のプログラムを残す様々な技法を開発した。口承や伝承といった記憶や口や身振りといった身体を使ったやり方から、情報工学的な手法まで。マイケルジャクソンが死んでもなおうたっているのはそのためで、彼は情報のプログラム自体として「歌声」を伝えている。
もちろんそれを媒介する人やものがなければ彼は消滅したも同然である。

聖書で復活といわれる現象や、仏教での転生の概念は、ちがう形に人間の情報プログラムが再編され、他者から他者へと転移していきながら変形していく様子を指している。

目の前の人がいなくなり、葬儀が終わってもその人は生きてしまうということはある意味では恐ろしいが、ある意味では自明である。宗教はその死者とされるものの情報を管理したり解読したりする仕方として開発されたのかもしれないとさえいえる。