細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

松岡正剛のポランニー評を読む

松岡正剛はK・ポランニーの仕事について大づかみにまとめている。http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1042.html以下は上記サイトの引用であり、ポランニーの著書「個人的知識」及び「暗黙知の次元」のポイント説明である。

このなかでポランニーが強調していることは、われわれの知識のほとんどすべては言語的な作用によって編集構成されているということ、その言語的な作用の大半がアーティキュレーション(分節性)によって構成されていること、しかしながらこの言語的分節をもってしても解明できない知識がわれわれのどこかに潜在していて、その潜在性の出入りによってこそ言語的分節も成り立っているのではないかということである。
 この潜在的な知のようなものが「暗黙知」なのである。しかし「暗黙知」のイメージがピンとくるには「不意の確証」に出会っておく必要もあるし、いくつかの境界条件を知っておく必要も、また「創発」がどのようにおこるかを知っておく必要もある。

自分が知っていると思っていることはほとんどが言葉によって名づけられ、秩序付けられ、構成されている。
しかしその知識を発見したりする際には簡単に、言語で「分析しにくいもの」が働いている。だから発見はとりあえず「暗黙知」と呼ばれているがそれは別にオカルト的な神秘ではない。発見や創造の働きやその仕組みは普段は言語化されえない複合的なきっかけや動因に基いている。
 

マイケル・ポランニーが何をしたかといえば、発見とは何かということを研究した。誰しも発見に敬意を払い、発見の結果に驚異をもつものではあるが、発見とは何かということをなかなか研究しようとはしてこなかった。
 発見についての問題は「知ること」と「在ること」とのあいだに、どんなつながりが作用しているのかということだ。このあいだが何らかの方法でスパークするようにつながったときが、発見がおこったときなのである。では、この二つのあいだを埋めるものは個人の能力なのか、時代の要請なのか、研究グループの相互刺激なのか、それとも孤立との闘争なのか、謙虚な態度なのか、どうしょうもない我欲なのか、それとも直観のようなものなのか。これらはたいていは定めがたいものになっている。

つまりそこにあるものが驚きをもって、自分にとっての研究対象になるプロセスは非常に丁寧に考えねばならないということ。

 

ポランニーは発見のプロセスを研究するにつれ、しだいに「知ること」(知識)と「在ること」(存在)のあいだには共通して「見えない連携」のようなものがはたらいていることに気がついた。最初にヒントを与えたのはレヴィ・ブリュールの研究である。レヴィ・ブリュールは未開部族の原始的精神機能を先行的に研究していて、そこに個人の感情ないしは動機が外界の出来事としばしば同一視されていることを指摘していた。レヴィ・ブリュールはこれをとりあえず「参加」(participation)と呼んだ。
 ここでは例示を省略するが、ポランニーはこのことをヒントに現代社会においてもこのような「同一視」「参加」あるいは「連想」が生きているだろうことを確信し、これを「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(dynamo-objective coupling)と名付ける。うまい訳語はないが、「動的客観的結合」といったところだ。
 ついでポランニーは、このダイナモ・オブジェクティブ・カップリングが自分の所属する科学研究の明日のなかでおこるかどうかを考えていった(ポランニーは最初はずっと化学研究に従事していた)。そこにはポランニーの境遇が関与した。ポランニーが暗黙知の作用に気がつくのは、ポランニー自身の科学研究の現場に対する洞察が必要だったのだ。

自分の予感とその予感にはまる客観的現実は、どちらもが「動いている(動的)」
そのふたつを結びつける機序をここでは「同一視」や「連想」と呼んでいる。文学ではここでメタファーなどが働くであろう。
しかし「同一視」というと、自分の脳内妄想と外部の現実が合致するようなニュアンスがある。もちろんそういう言い方も出来るわけだが、レヴィ=ブリュルが「参加」と呼んでいるのが面白い。

つまり発見にはそこに「参加」して結びつくという働きがあるのである。これを「暗黙知の次元」ではポランニーは「掛かり合い(コミットメント)」と呼んでいる。

自分が考えたいと思うことはいきなり「宿題」として「先生」が与えられているわけではない。しかし、もちろん「ゼロ」からの創造などありえない。画家はカンバスや絵筆を使う。他の人の絵の描き方もみる。しかしそこから自分自身の描き方を持たなければ絵を書いても面白くない。

この風景を描きたいという強い思いは、その風景と自分との「関係(掛かり合い)」を探ることである。
その関係は画家の常に「動的」な生活の中に置かれていて、画家自身も風景も変容していく。変容していく中で、「きっかけ」をつかむこの働きは科学でも似ているようだ。
また「暗黙知の次元」をすべて読んでから改めて描いてみたいテーマである。が今日はここまで。