細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

配られたカードで勝負するっきゃないのさ

題名は今日の我が家の「スヌーピー」カレンダーの標語である。*1
自分ができることは限られている。伝えられることも限られている。もしもそれが様々な波及効果を生むとしてもそうなのである。

もちろん諦めばかりが先行しても仕方ない。
ただ、まずは、自分の周りの人と話すことだ。自分には何が足りないか、何が他の人に分け与えられるのか。それは食べ物やお金のことというよりも、それを支える関係性において、例で言うと自分が過大に家族の困難を背負っていないか考えることである。家族というものは私の自我の形成においても大変大きい問題だ。たとえフロイト精神分析理論の大半が間違っていたとしても。それは人間の限界性であると同時に、生れ出る培地なのである。(もちろん血でつながった家族に限定されない。)
誰かの肩にばかり仕事の重みがかかり続けてはならないのだ。
役割の分業・分担はあるべきである。*2しかし例えばある女が母の役割ばかりをやり続けていたら、その人は自我の構成において、母の比重が大きくなりすぎる。
もちろん子を産んだり、育てたりすることで人は母になる。しかしそれだけであることはできない。通行人であったり、病者であったり、消費者であったり。それはもう役割というのもはばかられるくらい私たちは毎日何かを演じているはずだ。その役割の多さというものに私たちは参っている場合すらある。

役割の多さを逃れようとしてアイデンティティや硬直的な役割同一化が生れたのかもしれない。(このことが制度疲労を起こしているわけである)

それは介護職も警察官もすべて同じことだ。介護職も警察官も、毎日それだけでありつづければ、組織に埋め込まれ、そのトーン一色になってしまう。ひきこもりや精神病者も、そのような役割同一性の罠自体から逃れられていない。
変身やコスプレよりも大事なのは(というのはそれはもう毎日すでに行われていることだから)自分がそれを貫いて「人間」であることだ。
人間それ自体は硬直した同一性(アイデンティティ)であるよりも、可変性、弾性そのものであると思う。
人間をスローガンとして使った時点で、硬直化が起こる。例えば、「コンクリートから人へ」というのがそういう劣悪なスローガンの一つだ。

人間、それは悪く言えば何者でもありうるということだが、何者でもありうるということをやり続けることが不可能な以上、ある消滅しうる個体である他ない。(様々な革命の理念はこの「限定性」というものを忘れているように思う)
消滅しうる限定的な個体が、他の存在と連繋して、たまさかその「人間の条件」から横滑りしていくことが芸術なのではないだろうか。

その芸術の一形態として例えば生活や仕事があると考えてみてはどうか。
ピーナッツというマンガに出てくる有名なビーグル犬スヌーピーは「配られたカードで勝負するっきゃないのさ」といっている。
今配られているカードは有限であるけれども、その組み合わせによって様々なポテンシャル、技を形成できる。
スヌーピーはそのことも同時に伝えているように思われる。