細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

言葉の培地

詩人や文学者の仕事は、わたしたちが話し、書き、読み、さえずる言葉を粉々に粉砕することではない。そう思うときがある。

日々、言葉は粉砕される。精神病によっても、身体の病によっても戦争によっても、裏切りによっても。そこでは語りがたさの感触だけが残されている。
あるいはその粉砕や失語によって、くりぬかれた空虚の中に、手当たり次第に言葉がつめ込まれてしまう。

だから言葉が失われることそのものよりも、発語が壊れた後からの再出発が大事なのだ。

その人なりの言葉の立ち上げこそが大事なのであって、恐らく詩人はそこで非常に大事な役目があるのではないかとおもっている。
というより、詩人はある特定の人物を指すのですらなくて、ある言葉を担うとき誰でもその瞬間は詩人なのではないだろうか。

硬直した言葉を発しても、すぐへし折られる。あるいは生きていくことそのものに沿うことができない。

硬直した言葉をただ破壊しているだけでは、ぺんぺん草もはえない。

そして世上を覆うのは硬直した言語が別の硬直した言語に打ち倒される光景ばかりである。
粉砕されるか屹立するか、そういう運動しかない。
私たちが言葉をいうやり方は実際そういうものではない。声の大きさを競っているわけではない。人の言葉に耳を傾けるのはそれがでかいからではない。それが謎の場所から聞こえてくるからだ。

恐らく狭い世界というものは、声の大きさや頑なさだけが支配する場所なのである。
それはどこでもいつでも発生する。だからそこで様々な声の種類が響かなければ話にならない。
まとめたり、組織するのはそれからなのである。

まず様々な声が響かないと、芸術や生活の培地そのものがなくなってしまう。そのような培地そのものが根こそぎやられていることが危機であって、ありきたりの言葉がまかりとおる現象を叩き潰しても、キリがない。

土の成分について考えてみよ。それは、本当に様々なそこらじゅうにあるものが変形し、変質している姿である。土それ自体が環界とその代謝である。
それは硬直したら草木も生えない。ミミズがいたり、そこに様々な運動や生成があるという事実性に基いて土はある。言葉もそれに非常に近い運動性をもつのではないか。

空から降り注ぐものも土の成分であり、土からなるものも空を構成しているのである。