細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

社会参加と暴力―id:ueyamakzkさんに触発されて

id:ueyamakzkさんが臨床上の技法論としての、「身近な民主主義」 - Freezing Pointのエントリで語りかけて下さった。それはとてもうれしかった。のだが、それも束の間考えてみるなら私自身「「コミュニティや親密圏の民主化」は、どういう技法的媒介項に基づけばいいのか。」をどう考えていいのか、暗中模索の状態なのです。つまり率直に告白すると、「わからない」です。
でも、自分も親子の関係や学校でのいじめ、職場での「関係性」やこの日本という社会での人と人のつながりのあり方に、「非民主的」なものを感じていき続けてきたことは確かだと思うのです。

私はギデンズの社会学についてしっかり勉強しておらず、うまくお話できないです。でも、社会福祉士の勉強の過程や、昔知的障害者グループホームで少しだけ介助や、世話人をやったことがあり、そこの部分でまずお答えします。
まさしく、問題を共に考える、それぞれが尊厳をもったままつながりをつくろうとするときに「グループダイナミクス」は利用可能です。というかあらゆる社会関係において、ひとりひとりバラバラでは出せない力が働いています。これが悪い意味で機能すると、いじめや排除、暴力の問題を生み出します。

良い意味で働くと、相互的創発的な関係性を作り出し、それぞれが自分の潜在的な可能性や力能を発見することも出来ます。(日常と非日常のメリハリも、人だけではなく周囲の環界との相互触発やその定着という意味を持つのでしょう)

どんな職場でも会議でも、遊びでも協同作業あらゆる社会参加の場面で、その両面をもっていて、どちらの面も避け得ないと思います。不可分一体。それが「統治」ということなのかもしれないです。自分たちの力をどういうふうにひっぱりだすかということ。しかし福祉の現場なんかは特にそうなのかもしれませんが、理想論と「現実にはこうだからこうするしかない」という論が対立してしまう傾向ある気がします。僕が昔の職場で感じたのも、口では「自立」や「権利」というけれど、それを障害者について語るけれど、支援者同士の人間関係や、生活は、上山さんがいうように「前近代的」とか「隷属」みたいなことになっているってことです。少なくとも自分の実感ですが。それは自分自身がそもそもそうなんですね。恋愛なんかでもたくさんつまずくわけですし、経済的にもなかなか自立できない。しかし僕が目の前でお手伝いしている障害者の人たちもほぼ似たような問題で悩んでいる。場合によっては、それよりも様々な意味で障壁やバリアに囲まれている。

また暴力や性についても大変難しい。東京都の特別支援学校で、性教育のために人形をつくってやったら一部都議が批判したこともある。
でも知的障害をもつ子どもたちを性暴力の被害者やあるいは加害者にしないために、性の問題はさけて通れません。
また暴力行為についてこれまで援助者による暴力は問題になってきましたが、障害当事者の暴力や問題行動の防止、あるいは起こったときの対処については現場の経験則や裁量に委ねられている部分も大きいのではないか。
とはいえ、社会福祉サービスにアクセスしにくい問題をもつ人たちを研究する動きもあります。支援困難事例という呼び方もします。介護保険サービス分野で対応が難しく、ケアマネなどが手を焼く例を、ケアマネの資質や、また利用者だけの問題にするのではなく、両者が相関するシステムで捉えようとする動きです。これがどこまで、現場で運用されているか自分が不勉強で把握出来ていません。CiNii 論文 -  高齢者における対応困難事例とは何か
もう一つ岩間伸之というソーシャルワークの研究者がAmazon.co.jp: 支援困難事例へのアプローチ: 岩間 伸之: 本という本を出しているのは見かけました。

ソーシャルワークでは「社会資源」といって、支援団体などもそうかもしれないし、近隣住民、それだけでなく様々な関係性がそれに成りえます。逆に言えば社会関係によって、その人が参加から阻害されたり仲間はずれになる場合もあります。

だから参加とか、社会関係がホントに再分配できてない場合もある。その上、駆け込み寺的にいろんなところへ言っても、意外とそこのボスがいるとかそういう問題があろうと思うのです。これでは社会関係に絶望せざるを得ない。

さてそういう場合に、社会福祉では自分たちの排除や被支配状況を捉えなおそうってことで、例えば公民権運動とかもそうかと思いますが、たくさんそれについて考える会みたいなのはできたのを研究してはいるんですよね。その運営方法とかですね。これは「集団援助技術」あるいはグループワークといわれる領域です。一番小さな単位はケースワークで、これが基本ですがグループワークではグループダイナミクスを使います。

いくつか参考サイトをあげておきます。たぶん上山さんからすると、いろいろご批判もあるはなしかと思うのですが参考になればと思います。

http://www.lap.jp/ps/koza2.html
http://www.lap.jp/ps/koza5.html
独立行政法人福祉医療機構ピアサポーター養成研修のページより)

それからそういうソーシャルワーク技法それ自体への疑問みたいなのを僕も感じるのでそれを考えておられる方のサイトも上げます。
http://emanote.halfmoon.jp/emanotes/2007/08/post_104.html
http://emanote.halfmoon.jp/emanotes/2007/08/post_104.html
(cricket`s eyeのページ)



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僕も思うのですが集団での排除、暴力みたいなもの、それをどう解決するか。これは以前上山さんが指摘されたように「泣き寝入り」か「警察か」「スルーか」みたいな話がいっぱいあるとは思うんですよね。いじめなんかもそうですが、学校の中に「警察を入れろ」みたいな議論もあると思うのです。しかし警察は「私人間」のトラブルには立ち入らないという基本スタンスがあります。もちろん、児童虐待で、児童相談所の職員に警察官が同行するとかそういうのは法制化されていると思いますが*1これは間違うと、凄く危ない。警察は公権力であり、国家の独占暴力だから使い方が難しい。
暴力は社会を維持するのにどこかで必要かもしれません。現にマックス・ウェーバーは国家の定義を「ある一定の領域内で―この「領域」という点が特徴なのだが―正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」といっています。ただそれは使い方が難しい上に本当に使っていいのかわからない面もある。また医学のように合法的に外傷を与える分野もあります。

自分も骨折するまでいじめられて結局泣き寝入りとかですね、そういう悔しい思いもしましたから、私的領域だから友達だから安全だってわけはなくて、しかしそれに警戒しすぎるとまさしく社会関係の形成の場に出て行けないってことになるかと思います。
暴力を防ぐ、そのための様々な通報、監査や評価はもとより、しかしそういう暴力を人間は行使してしまう性質があることを噛みしめた上で共同体は構築されないと、性善説だけでは全く危ないと思います。

まさしくそのひきこもったはずの家庭でも、僕の知っている例でも子供の頃から虐待を受けてきた人ってのはたくさんあるわけです。でもそういうのにどうしてあげてよいやらわからない。だから親密圏から公的領域までひとつのスペクトルというか、連続体として捕らえなくてはわからないことがたくさんある。そういう意味で詳しくはないですが、ギデンズやドゥルーズガタリの議論には可能性があるのかなと思っています。流れや切片を様々に含んだ様態の中で社会を捉える。これはドゥルーズなどはガブリエル・タルドあたりの社会学を参考にしていると聴いたことがあります。デュルケムなんかでは「実体化」の力が強いらしいので。

また自分も大人ですから性愛の中で互いが尊重しあうビューティフルな関係はなかなか作るのが難しいというのが実情です。いや、お互いがお互いを尊重しあわない限り僕らが生き延びる道はないんですけども。
だから関係性を考える場合に全方位的かつミクロ的というか、そこに起こっていることをきちんと焦点化したり、あるいはいろんなものと関係させていくそういう言語がいるんではないかと思います。これはある意味ケースワーク(場面場面での作業とも呼べますね)
それは理性の機能というよりはきちんと自分の意志や感情を見つめ、それを育んでいく風土がなければいけないのです。モニタリングというのでしょうか。これは「規範的な」物言いになってしまい申し訳ないですが。暴力や被暴力の経験から学んだ人たちが、そこから被害感情のみではなく教訓を引き出していく動きというか。

暴力や他者の強い意志、あるいは自分の本音、本性を発現させるのは、いちばんわかりやすい言葉で云うと「裏切り」です。私は上山さんの書くことばの中に、何かに裏切られた、あるいは自分が何かを壊そうとする、そういうときの非常に複雑な意識みたいなものを感じるときがある。これは悪い意味ではなく、人は誰でもそうあらざるを得ない面があるというか。

社会には自分たちを裏切り、破壊するような経験がたくさんあります。そういう場面を否認することはできない。そこから学ぶのは辛いけど学ぶしかない。これは今話すと長くなりますけども若森栄樹という方の「裏切りの哲学」という本で学びました。*2

文学もそういうあらたな課題やモメントを捉えるために、つまりはこれまでの流れを切断して、新しいラインをつなぐ、あるいはそれを語り継ぐために発達してきたはずなんですよね。クリティカルな場面を、出来事を、事件をどうとらえるかってことです。(ソーシャルワークではナラティブアプローチというのまであります。当事者の「語り」に焦点をあてて支援を展開する。これもまだまだ勉強できていませんが、戦後の綴り方教室とか山びこ学校なんかもそういう試みかなと。もちろんその裾野に竹内敏晴さんもいると思います。声の復権ですね)近代社会において、例えば共産主義者が弾圧されて転向させられる。そこで中野重治なんかは「村の家」なんかを書きましてきちんとその日本の前近代である家族の根っこから考えないと社会改革なんて覚束ないということに気づいたみたいなんですよね。それを吉本隆明なんかは高く評価しています。中野重治にも功罪はあると思うんですけどね。花田清輝みたいに前近代からもいいものを引き出して、つまり柳田國男とかの民俗学からなんか引っ張り出すとかです。温故知新みたいにして今のコミュニケーションやなんかの閉塞を変えたいみたいな。

まとまりはございませんが、まずはこれで一区切りします。長くなってすいません。お答えになっているかどうか…

*1:「児童虐待の防止等に関する法律及び児童福祉法の一部を改正する法律」の施行について(平成20年3月14日雇児総発第0314001号)|厚生労働省

*2:「人はなぜ裏切るか?−あなた自身であるためです。しかしあなたはあなたの裏切りの帰結をどこまでも引き受けなければなりません。たとえそれが最悪の死にであっても。なぜならそれがあなたの真実の姿だからです。「真」という字は、語源的には斃死つまり行き倒れ、という意味です。そのように孤独に、家もなく、生の途中で死ぬことを、真実は僕たちに要求しているのです。生きるとはそういうことです。そしてそのようなリスクを通じてだけ、生はその燦然たる姿をあらわすのです。そのリスクを避けた人間の生は冗談のような生となるでしょう。/しかし個人がこのように重い荷を背負うのは不可能です。なぜなら人間は、自分自身に対してすでに他者であり、孤立して生きることは不可能だからです。僕たちはただ共同体としてしかいきることはできないし、僕たちの体験は共同体の体験としてしかありえないのです。したがって僕たちの生きる共同体がどのような共同体なのかということは僕たちにとって死活問題です。この共同体はプラトン以来、ポリティア、国家体制と呼ばれています。実際、僕たちは日本語を話して生きており、日本という国家体制の中で、その制度に支配されて生きています。したがってこの制度がどういう制度なのかを知らなければ僕たちは決して僕たち自身のことを知ることもないのでしょう。」若森栄樹「裏切りの哲学」1997河出書房新社より。*共同体とひとりひとりのアクロスする関係、共同体がもつコードをどう考え変更するかが問題なのかもしれません。