細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ノーフューチャーだからって

勝ち負けから降りる生き方

勝ち負けから降りる生き方

読了した。

純粋力

純粋力

こちらもほぼ読了。先進国(笑)になりつつある日本の社会状況を直感的に踏まえて、このふたつの本は書かれているように思う。もう何か一般的な社会の惰力に流されて、社会適応する道は絶たれているのだ。それは少子高齢社会もそうだし、一応エコな思潮から考えても、大規模な開発や消費による発展は人間にも自然にも負荷が大きすぎると、20世紀私たちはこの身をもってまなんだからだ。

だからといって、これだという感じの生き方もないので、その処方箋を出す人が増えている気がする。15年前にもそのことが大きな課題になった。バブル崩壊後のオウム真理教の「終末論」も未来がもうないのではないかという実感にはよくうったえてしまったのだと思う。(淡路・兵庫の大震災にはそのような終末論とは異なる関係の再生成の萌芽が見られたようにも思えた)しかしその解は、そこから極端なキョーレツな唯一の解あるいは、超人的な生き方をまねることではない。大事なことは様々なつながりをとにかく自力と他力をまじえて目の前から作ることである。オウム事件が提出した課題はこれであろうと思う。この頃登場した論客で注目する人に宮台真司鶴見済がいるように思う。ふたりとも東京大学社会学を学んだ。*1
つまり15年かかって、このような課題に日本社会も一定の見解を出すにいたったのかもしれないと上の2冊の本を読んで思った。逆にどちらかといえば、宮台氏や鶴見氏は、その主張の雰囲気とは裏腹に字義通りのラディカルさを失いかけてきているように思える。大きな問題にはそれに見合う長い時間が必要なのだ。1995年21歳であった私も来年で36歳である。あの頃読んでいた「寄生獣」のシンイチも僕より少し下くらいかもしれない。


末井、二神両氏はいわゆる社会学者でもなんでもない。多少その筋では有名なふたりなのだった。二神氏はニート・ひきこもり支援のNPO代表。末井氏は、パチンコ必勝ガイドなどで脚光を浴びた編集者。
皮膚感覚のようなもので語っているが、二神氏がどちらかといえば、マクロな世代論で語る(二神氏は団塊の世代より4っつくらい上か。うちの親と同じくらい)。それはひきこもり、ニートを語る限り、家族のしがらみや桎梏の問題と向き合わなくてはならないからだろう。ただどちらかといえば、社会意識あるいは構造論となっていて、一般論に行ってしまう傾向がある。
もちろんしかし学者のように理論や統計で煙に巻かない分、その人の間違いも美質もわかりやすい。何よりも実際に目の前にいるひとに語りかける仕事だから。しかし統計や理論も入れて欲しい気も少しした。ちょっと単調なのだ。ただ優れた識見は様々に見られる。充分に著者の思いや思想がわかる。

対して末井昭は、もろ団塊世代なのだが、もっと社会の端っこで生きてきた感覚が強いように思う。世界なんて思うようにならないという感覚、ここからしかし、その世界で如何に生きるか。借金、不倫などほぼ実体験でかたられている。
末井氏は母がダイナマイトで自死したという背景があり、人は死んでしまうという事実性が強烈にベースにあるように思えた。だからといって、それは終わることなく彼の心の中にあるのだろうけど、とにかく生きながら、時間をかけながら母の死の出発点を手放さなかった感じがある。こちらは二神氏と異なりたぶんに「実存文学」のようだ。語り口は軽快なのだが。

どちらもまさに「ノーフューチャー」つまり発展や輝かしい未来は構想できないという点で一致している。ただ、ノーフューチャーだからといって、まったく「何もない」わけではない。この身体、この身はしばらく渡世する必要がある。だとしたら、多くは期待できないにしても、自分の生を様々な方向に展開できる可能性もなくはない。そういうシビアながら、どこかに希望がかたられているように思うのである。

まずは人と人とのあり方をこの生身をもってかんじること、つながること…

*1:鶴見はパンクスやサブカルチャー方向から、「社会とかそういうのはしんどい」「いやだ」と正直に言っていた。最近ではエコロジーや大量消費社会批判の度合を強めている。それに対し、宮台氏は「終わりなき日常を生きろ」という方向から「スゴイ人への感染」を語ることにシフトしていく。