細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

溶けてきたようにも

最近デイケアに週3くらいは大体通うようになっている。
デイケアというシステムには様々な矛盾があると思う。自分の場合、以前通所していたデイケアではいろいろ揉めた。今のデイケアにもいろいろ感じ葛藤しながら通っている。ただ、様々な人がそこにいることは間違いなく、自分は様々なバリアが心にあるもんだから、それが少し溶けてきたように思う。
もちろん自分を守るためにある程度、外界と自分との間にフィルターはある。けれどそのフィルターが目詰まりすると、入ってくる空気が無くなって窒息する。自分のフィルターが目詰まりしたのは自分だけのせいではない。が、それを掃除して中に空気を入れるのは他の人が変わっては出来ないのだ。
他の人は手伝いができる。そして苦しい人はもっと手を差し出していいと思う。その手は弾かれるが、しかし弾かれていくうちにいつか掴むものもあるのではないかと思う。
もちろん絶望という感覚をつかむこともたくさんある。
そしてその絶望から学習することでしか、実際的な行いや関係作りは出来ないのも悲しいながら事実だ。

もし誰かが正解を持っていたら、こんなに楽なことはない。しかしそれはない。互いが伝え合い、経験を深めることでしか、より妥当なものの捉え方、動かし方にはたどり着けないのだ。

自分は病気になってから、ある女性と出会って、けっこう長くおつきあいしている。自分は経済的にも身体的にも無力な時期が長いので、非常に頼りにしたが、最近では自分で出来ることが増えて本当にうれしい。率直に困ったとか端的に言う人なので自分が、観念や怨念でがんじがらめになっているとき、ふと正気に戻してくれる感じである。

もちろん喧嘩もする。お互いのスタンスが許せなくなる時が一番難しい。人の関係はいつ壊れてもおかしくないもんだとよく思う。その都度、互いが相手にとって自分は何かを考えざるを得ない。そういうとき自分の悪いところばかり見えてしまうが、いま互いで生きるためにどうしたらいいかは否応なく考える。それは糧になる。

自分が何か出来て人に与えられる。それは能力があるからではない。もちろん持って生れた資質の部分は大きい。
しかし関係の中でつまずいたことをひとつひとつ何故か考えて、感じていくしか自分はない。その中で少しずつ、生活するために必要な感覚のいくつかは戻る。どれくらい歩いたら自分は疲れるか。疲れていた洗物が少しずつできるようになるとか。

つまずいたことを相手のせいにするのは非常に簡単だ。病的な感覚にいると、認識が非常に狭まって苦しいため、話す相手を比較的恨んでしまいやすい。これは自分のケースで、本当に善人なのに、善人過ぎて、心を病んでしまうというケースもあるだろう。
しかし多くの人間は自分もそうだが容易に、人を責めてその場限りの憂さ晴らしをしてしまうのだ。
しかしそれを何でも同じ地点で繰り返していると辛い。
もちろん、繰り返さざるをえないほど、その人の苦が深い場合もある。深い苦しみにはその深さに応じた何かがある。

人を責めてしまうほど辛い自分を認め、どういう状況にあるか、1秒でもいい、考えられるようになるとずいぶん違う。

この1秒に達するのに時間がかかった。1秒間、間を置く。精神病になると、このくらいの軌道修正が一番難しい。なぜかはわからない。処理する課題が多いからだろう。生き方を見直さないと自分が死んでしまうからその見直しは大変時間がかかるのだ。
しかし時間はかかっても、自分が今どういう状況にあるかを人に聞いたり自分で確認する間を持つ習慣を持てば少しずつはマシになるように経験的に思う。

なぜなら精神病になるのにもエネルギーがいるわけで、加齢と共に様々な現実的な限界が見えてくることで、観念ではなく自分の等身大で世の中を生きざるをえないと感じられるからじゃないかなと思っている。今は。