細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

やっぱり

レヴィ=ストロースの『野生の思考』あるいは『悲しき熱帯』あたりは読んでみないと、いろいろわからんことがある。もうひとつはメルロポンティをおさえる。そうしないと実存哲学の今日的な意味がわからない。もうそういうサルトルみたいな自分で自分を引き受けるという人間のあり方が古いかどうかわからない。俺はその考えは古くなく、西洋圏だけでなく、サムライもアメリカ先住民族も考えてたと思う。腹切りや儀式は自分が存在するという事実から派生する「責任」みたいなものへの答え方のひとつだと思うから。

ふたりともサルトルの「弁証法的理性」という言葉にあるいは、そういうマルクス主義的な歴史観とその歴史の中にいる個人の捉え方のフレーム自体に異議申し立てをしている。しかしもちろん自分が「ここにいる」というテーマがどうでもいいということにはならない。
ただそれぞれの世界、地域でそこにいる人たちが採用したり指針にする時間や、その時間を構成している思考のありようが相当にちがうということは確かである。だから乱暴にマルクシズムに基いて、この状況に「参加」せよということはできない。
正義は正義なんだからとにかく「したがえ」では困ってしまう。
こういう理由で正義だと私は「考える」がどうだろう?それを「正義」と考える自分って何者だろうという問いがいる。
つまり、乱暴にいいなおすなら、サルトルのやり方では、どうしても「内ゲバ」が起きてしまうといいたかったのではないか。
目的として正しければ、それはどうしてもそうしなければならない。そういうことどうしてもなりえないということ。

ただ、自分たちが相互の協約あるいは約束事からそれぞれの秩序や世界に属し参加しているということはどの地域においても否定できないはずである。
ただ、その際に、つまり参加とか、ある社会関係に関わる/関わらないという次元はどの社会でもおそらくは存在する。そこを問い直すのに、メルロポンティは、それぞれの認識や世界は、その人個人そのものからすべて発しているわけではなく、必ず互いに「絡み合う」ことで育っていくということを強調した。たった一人で何かを決断しているわけでなく、自分自身の決断や意志に必要な素材は、かならず何かや誰かとの関係の間からしか「原理的」に調達できないはずであると。
つまり自分が「○○する」ということはどこか必ず公的な広がりの中にある。社会性といってもいい。社会性の大元の互いの存在の重なり。言葉を考えてみるといい。言葉は互いに、みんなで使いながら、それぞれが個々として発語し使うのである。その二重性とか。「おはよう」は相手にいい、相手と自分をつなぐ。そういう形で自分がそこにあらわれるみたいな。でも他の誰かが変わりに「おはよう」といってもそれは自分の「おはよう」ではないみたいな。

哲学が反省や合致を自称すると同時に、自分が見いだそうとするものをすでに前提としているという批判(それ*)が正しいとすれば、哲学は最初からすべて(の作業*)をやり直す必要がある。反省や直観(という哲学の方法*)が手に入れた道具を投げ捨て、まだ反省も直観も区別されていない場所に身をおくこと、(言い換えれば)「主観」と「客観」(といったものや*)、実存と本質(といったもの*)が混ざりあったまま、一挙にわたしたちに与えられ、(そして*)まだ「加工されていない」経験のうちに、これらの(概念や経験そのもの*)をふたたび定義しなおせるような場所に身を置く必要がある。見ること、語ること、さらにある意味では考えることまでもが(というのは、見ることと考えることを絶対に区別し始めると、すでに反省の領域に入って(しまって*)いるからだ)、この種の(区別される前の*)経験、否定(しようとしても*)できない(略)謎めいた経験なのである。

中山元編訳「メルロポンティコレクション」ちくま学芸文庫より引用。なお(*)部分は石川が補った。

つまりひとくちに反省や経験といった自分で考えたり決めたりする材料の中に、すでにたくさんの未決の謎が含まれていて、サルトルも含めた哲学者はそれをすでに決まったものにして話をしようとしているが、そこには大事なことが欠けているといいたかったのかもしれない。サルトルが所属している近代の自律、社会生活、歴史それら自体が我々の生活そのものであるにもかかわらず、それらが自分たちの存在のあり方の可能性を狭め、裏切っているということをいいたかったのかもしれない。キリがないが、しかしその都度、やり直すことができるのが人間のよさだと私も思うのだ。

レヴィ=ストロースは、理性そのもののありようを仔細に様々な例証により分類、検証した上で、西洋文明とそれ以外の文明の理性の働きには見かけよりは違いは少ないが、しかし似ているようで違う、違うようで似ていたりもするというふたつの局面を丁寧に見なければならないといったのかなと。そう想像する。

つまり簡単に人と人同士を異なるということも、また同じだということもできなくて、その違いや似ている加減を仔細に検討し、分析しなければそれは必ず「他」に対する「暴力」に発展するといいたかったのかなと。

マルクスは、しかし今や世界中を覆い尽くした感のある「資本主義」の分析の、いわば「家元」のような人なのだった。そうだとしたら、資本主義は、ほぼ全世界化した現象だといえなくもない。その効用と病理を丁寧に検討しなおすことは大事である。レヴィ=ストロース翁が尊敬する二人の思想家はフロイトマルクスなのだった。
そしてどちらもよく考えてみると、人が置かれている根源的な状況の分析家なのだった。その状況にも理解可能な「構造」が見え、それを乗り越えることができるかもしれないという見通しをふたりは持ちそうになった人だったからだ。

ただ、その構造があって、その構造の中にいる人間は実際どう生きていくかと考えると、やはりどうしても「実存」というか「待ったなし」の課題もあるのであった。それはやはり「良心」とか「信義」みたいなものを僕はどうしても考えてしまうので。
もちろん哲学は安易に答えを出さない学問だから、「哲学なんてやっても生きていくことはどうしたらいいかわかんない」というのは素朴に感じるところである。しかし人は知らない間に、様々な現実に応接して、様々にその捉え方ややり過ごし方、作り方をその都度、思考しているはずなのだから、実際哲学に近い作業はやっている。
しかし、現実を様々な「層」や面のある現象として捉えながらも、ほっておいたり、なにか手を出して痛い目に会う、学習する、忘れるというのが人間であることはまちがいない。だから「実存」という考え方も大事だと思う。

自分のこの身体、この生を今生きているというのは、どうしようもなくそうなのだから。これはサルトルだろうがオバマだろうが、俺だろうがあんただろうが変わらない。(そういえばオバマが受けとったノーベル賞サルトルは受け取らなかったはずだ。マザーテレサはまた別の理由で受け取ったのだが)もちろんSF的な設定を加えたら話がすこし変わるのだが。逆にSFや、科学技術があるのは、今生きている自分自身をどうにかしたい、なにかちがうものにしたいという衝動も人間にはあるからだなあと思ったり。