細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

メモ:哲学における「人格」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A0%BC

person(英)、Person(独)などは、ラテン語のpersonaに由来する。その語源には諸説あるが、ギリシア語のπρόσωπον(prosopon:顔やモノの前面、仮面)であるとされることが多い。ラテン語ではさらに「〔演劇や実社会における〕役割」「〔法的主体または対象としての〕人」を意味した。キリスト教においてはテルトゥリアヌスによる神の「三位格・一実体(tres personae – una substantia)」定式において用いられ、ボエティウスにより、ペルソナとは「理性的本性をもつ個別的実体(naturae rationabilis individua substantia)」である、という定義が与えられた。イマヌエル・カントは、人間が持つ道徳法則の主体としての性質を人格性(Pers〓nlichkeit) あるいは人間性 (Menschheit) と表現した。道徳性の主体としての人間は人格(Person)と呼ばれ、物件 (Sache) と明確に区別される。物件には何かのための手段として価値(価格)のみがあるが、人格は手段としてだけでなく同時に目的としても扱われなければならないという形で道徳的な価値を持つ。この思想は定言命法としてカント倫理学の中心的な役割を果たしており、『実践理性批判』『人倫の形而上学』などの著書において展開されている。

この説明だと、ギリシャ時代person=仮面
          ↓
       ラテン語では、それがそのお面をつけてある役割を演じ
              ることそのもの。また自分自身ではなく
              あの人、この人と指し示す対象としての
              人になる。

      ※つまりこれは他人から見たその人。という意味で外面性
       ?みたいな。
          ↓
       キリスト教では神は三つの姿で現れるが、神そのものは
       ひとつ。三位一体ということか。
          ↓
       それが転じて人にも適用され
       ペルソナとは「理性的本性をもつ個別的実体」となる。
       人は理性的存在だと。
       imago deiという言葉もある。人は「神の似姿」として
       つくられたという考え方。神に似ている部分というのが
       理性?
          ↓
       カントは理性という内なる声に従うことを人間の特性と
       して捉える。ものはそれ自体で存在しているため、それ
       は手段的に使われる。即物という言葉もある。それに対
       して人を恣意にまかせて、引きずり回さないためこうい
       う規定を編み出したのかなと思う。
  ※さらに実存方面に延長させる。
       これはハイデガーでも踏襲されているのかなと思う。、
       木や石や、その他の自然物や道具を「道具的存在」とい
       う。あるいは
       vorhanden-seinつまり手(hand)の前に(vor)ある存
       在つまり「そこにあるもの」とされる。
       対して人間はda-sein(今ここにあるもの=現存在)と
       される。ここに存在するという事実は他の物質や生物と
       同じだが、それをわざわざ自分に対して問う。(対自)
       生きる意味を問うてしまうという点がちがうのかな。い
       や近代は物の意味を結局人間にとっての利用可能性でし
       か図ってこなかったので、それを批判して世界やものの
       新しい様相を、人間存在のとらえなおしを通じて一挙に
       やる意図があったんだろうな。
       自己言及や再帰性を思わせるニュアンスがある。しかし
       ハイデガーは死という未来を現存在にあたえられた可能
       性と見なすので、実は自己完結しないようにできている
       ということかもしれない。(このへんきちんと勉強しな
       いと…)
       サルトルの場合、まずここに自分がいる、無根拠にあ
       る。実存は本質に先行するという言葉はそういう意味な
       のかもしれない。ただもう既に「この世界に生きてし
       まっている自分」に気づく。無から始まるので後は自分
       自身を燃料とし、素材としてそれを生きるしかないみた
       いな?その「生きてしまっている」自分への「気づき」
       は大事である。
       しかしそこにどれくらい、その生きることの「それ自
       体性」そのものへのフェティシズムがまとわりついてし
       まっているのか?生きることの動的な、その場その場で
       可変的な、経験や学習の要素が考えられているのか?そ
       の辺りが大事である。また構造主義はそれに対する実際
       的な応答あるいは批判になりえていたのか。その辺が自
       分はあまりわかっていない。


       

言葉として、人には他にmenschとかもあるがこれは全体としてのひとで、もっとpersonは個的な色合いが濃くなってくるのかなと思う。

http://questionbox.jp.msn.com/qa2185232.html

Leuteはとにかく幅広く使います。
英語でのpeopleよりもずっと見聞きする機会が多いように思います。

ZDFにはLeute Heuteという番組があるようですね。
http://www.zdf.de/ZDFde/inhalt/25/0,1872,1021113,00.html​

Person はあくまでもひとりひとりに対して使い、この単語には英語のpersonよりも個人としての「人格」の意味あいがより濃厚なような感じがします。
「私は、個人的には」と言いたいときにpersonlichもとてもよく使いますね。

persoenlich.comというサイトをみつけました。
http://www.persoenlich.com/​

Menschなんですが、これだけで使うときはLeuteより抽象的、哲学的なイメージ(personlichですが)。
Menschenleben, Menschenrechteのようにほかの単語とくっついてよく使われることは多いですね。

この3つは単純にいえば日本語の人間(人類)、人々・人たち、個人の違いといっていいと思います。

こういうニュアンスで考えると、日本語で「ひとは〜」はleute、人類はmensch、「自分はこうです」はpersonかな?なるほど。