細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

曲げすぎると変になる

詩は夜の12時を越えたら、書かないようにしている。数年前までは書いていたような気もする。しかし、やはり昼書いたほうがいいなと思うようになった。
夜は感覚は一種独特になるのだが、朝見直すならひどい詩や文章のことが多い。
別に夜中に書いててもいいし。他の人がどう書いているか僕は知らないが、自分はそうしている。

なぜかというと、ひとえにきちんと睡眠を取らないと体や心がうまく働かないことを、病気を通して痛感したからだ。睡眠と食事は大事だというと、「お前はおっさんみたいやな」といわれるのだが、実際そうだから仕方ない。

今でも夜中の体の緊張がひどいのか、起きたら体が痛いことが多い。しかし、それはその前の日やその週に大体無茶をやっていることが多いのだ。なんか変にぼやっとしたり、あるいは徒労のような日を送ると大体そうなる。
緊張と緩和が大事なのだ。普通に洗濯物や家事をしてても、なぜか息を詰めていて体が固くなっていたりする。普通に痛くなっている。知らん間に姿勢の悪いまま本を読んでいて、苦しくなっている。その苦しいまま、何かをしつづけるとかならずイライラするか、人への甘えがひどくなっている。

あんまりいうとアレだが、寝たり起きたり、あくびをしたり、体を動かすこと全般をナメテはいけないなと思っているということがいいたかったのだ。特別な健康法やダイエット法はどうでもよくて、無理をしないということと、気分よくすごすことで、その大半はまかなえると自分は考えている。

野菜の入ったあたたかい汁をとる。風呂にはしっかり入る。リラックスするために体操するなど。


あとは、自分の生きたいように生きる。これが一番むずかしいが、からだや心が悲鳴を上げるとき、(それは加齢や遺伝的なものもあるだろうが)自分自身を曲げて生活しているか、強情になっているかどちらかも原因ではないかと自分は思っている。

自分がそう行きたくない、生きられないのにその生き方を強いられれば人は病む。収容所に入れられたり、人が死ぬとこを見たくないのに、人を殺す仕事をさせられる。吐き気がするのに飯をつくる仕事をしつづけるとか、穏やかに生きたいのに芸能人になるなどもそうである。また、書くことがあまりないのに書くことを捏造すしつづけるなどもそうかもしれない。
やさしくしてほしいのに気を使い続けることもそうだろうし。他にはあまりにも孤立無縁な状態を自由だといいはるなどもある。
犬と遊ぶようになってからそういうことがわかるようになってきた。犬は恐いから訳がわからないから鳴くのだし。生き物は嘘がつけないけれども、それが悪いことかよいことかわからない。けども、こっちが優しくしたらその分安心して寄ってきてくれるのだ。

何らかの形で、(仕事や生活や人間関係とかある形を)ある姿勢を固定せざるを得ない状況があると、人間は柔らかいものだからその形にある程度応じる。しかし限度を越えると体や心が歪んだり、固まったりし始めるのだ。腰痛や肩こりはわかりやすいが、体の中で起こっている変化はたいへん把握が難しい。

我慢と意地は、大体しないと生きられない気もするが、これらが限度を超すなら大体、ガタが来るのではないかと思っている。

最近人間は年をとったら死ぬんだなと、当たり前のことが不意に実感されるようになった。20の頃、死ぬとか生きるとかはもう少し観念みたいな感じだった。けれど、なんとなく人間はしんどいことを強いられたらば、死んでしまうほどに脆くて、いとおしいもんだと感じるようになった。だからまあ生きている間は、けっこういろいろ楽しみたいなと思っている。
思っているんだけどね。

また変な文章を書いてしまったなと思う。けど恥を忍んで公開してみる。