細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

耳が痛むので

火曜日の昼間にこれを書いている。朝は晴れてたが曇ってきた。昨日は、四天王寺散策、べんてん古本祭だった。100円均一コーナーを物色する。新潮社の日本文学全集34「梶井基次郎嘉村礒多中島敦集」。三人のうち梶井基次郎と嘉村は昔よく読んでいた。中島敦もずっと気になっている作家である。中島敦は中国の古典に題材をとっているものが多いので気になる。アジアというものを最近考えることが多い。
もう一冊は朱牟田夏雄訳「ミル自伝」岩波文庫だ。こないだ福澤諭吉展にいったとき、福澤がJ・S・ミルの影響を非常に受けたこと、また大学の恩師が好んで読んでいたこと、そしてこれは買ってきてめくってて分かったのだが、ミルの父が実はインド史の研究者だということ。こないだのガンジーについての本も含め気になるところだった。

それから昨晩はスーパー銭湯にいって、リフレッシュ。しかしなんとなく、耳の穴が痛い。で、今朝耳鼻科に行って戻ってきたところ。あとid:ueyamakzkさんの2009-10-12 - Freezing Pointで、ドゥルーズのインタビューの動画が紹介されていてそれを昨日から見ていた。ドゥルーズのイメージがずいぶん変わった。(上山さんの記事の注記にある「好々爺なドゥルーズシリーズ」好々爺なドゥルーズ・シリーズ ‐ ニコニコ動画:GINZA)書いてあるものは非常に晦渋な部分が多い。しかし「記号と事件」などのインタビューを読むと、前からアクチュアルな問題意識とか、その呼吸のリズムの面白さの片鱗を感じていた。このインタビューではクレール・パルネという(ドゥルーズとは『対話』などの共著がある)ドゥルーズと親しい研究者と話しているし、日本語訳も面白い。
ドゥルーズには飛躍が多いというか、屈折した論理展開や、ややこしい術語が多いと感じていた。が、彼自身は具体的な事象について、そのものの多様性や独自性や潜在的な可能性を、つまり事柄の旨味や味そのものを厳密に取り出そうとする姿勢があったため、それが理解しにくかったということがあるのかなと思った。もちろん左翼性や前衛のバイアスはあるが、そこをかいくぐれば、具体的な事件や現象を分析し、そこから可能性を取りだそうとしていたのかなとも思った。そのためにそれを救い出すために「概念」が必要になるのだ。今までいいえなかったこと、いわれていなかったことを救い出すことで、今までの流れとは別の議論や、活動や現実が活動できるということかもしれない。
自分は文学をやっているからそのへんの「創造」のニュアンスは実感としてわかる。ある作品が今までに語られていなかったことを語り、あるいは上下関係や優先順位をまるごとかえてしまう事はあるからだ。
その試みが厳密に妥当かはわからないが、しかしずいぶん身近になったことは確かである。
上山さんが「分析」というときのニュアンスも、何か行動や組織を立ち上げる時の、あるいは行動を開始するときのある種のお膳立てや自明性、前提をもその対象とする考えたら、少しはそのニュアンスが私にも理解できるかもしれないと思ったりした。*1
上山さんの方にはニコニコ動画バージョンが紹介されているが、僕はyoutubeで見つけた、「好々爺シリーズ」に入っていないバージョンを紹介しようと思う。革命とは何かとか1968年の運動についてけっこうつっこんだ話をしている。これを見たら彼は肺や気管の状態がよくなかったのがなんとなくわかる。好々爺シリーズの「動物」について語っているのは砕けていて面白い。そしてこっちのはさらに辛辣なおじさんモードを味わえる。取り扱いのむずかしい危険な思想家の匂いもするが、アルメニアやタクシー内のタバコ禁煙問題について、非常に具体的な話をしており、わかりやすい。

*1:ちなみにid:Arisanさんの記事サルトルと私と労働 - Arisanのノートを読んでいて、かつて柄谷の議論に親しんでいた頃を思い出した。柄谷の議論の中に自明性の喪失という言葉が出てきたのを私も覚えている。これはブランケンブルクという精神医学者が提唱したもの。例えば離人症では現実感覚の喪失や、統合失調症でも、当たり前の日常生活の行動パターンが読めなくなったりして、苦労する話がある。つまり他の人が当たり前に感じられる、あるいは行なっている潜在的な規約のレベルでの障害だ。柄谷は確かこれをデカルトにおける「方法的懐疑」やマルクスの「批判」やフッサールの「還元」といった哲学者の基本的な方法との比喩的な類似性を見ていた。つまり本当に深く発狂すれば、現実との回路は大幅に損なわれる。しかし意識的にそれを行なう。現実や当たり前とされている習慣を「括弧に入れて」議論することで、現実認識は深まったり、現実自体の変容のモメントをつかめるとしたのである。ただ上山さんが危惧しているのはこのプロセスで現実自体に背を向けた「メタ」化がポストモダン思想の潮流の中で積み上げられたということである。現実自体をよりよく問い直すために「自明性を括弧に入れる」作業が提唱されたのに、自明性を棚上げしたままになってしまったのだということだろう。そこからシニックが正当化され、マイノリティ運動の中にも流入した。ポストモダン思想というより、いわば処世としてこのような「目の前にあるのにないことにする」態度にポストモダンの自明性への疑いが転用されたのではないかと考えることもできる。少々意地悪な見方であるが。ただ単純に自分が気づいていても他人は気づかないでいるという場合や、上山さんも認めているように様々な利害や理由から問い直し自体が困難な場合がある。ケースワークや社会運動というものがあるとすれば、そこのところの事情の具体性への眼差しがなければ、「正しい理念」の草刈場のようになる。もちろんそれでも、ドゥルーズの動画にもあるように目の前の危機をどうするかを座視できなくなり人は立ち上がるわけであるが。このまとめには様々な間違いがあるだろう。ご指摘があれば感謝する。

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