細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

Talvin singhといえば/チャレンジド

昔こんな音だった。
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今日はNHKで九時からやってたドラマ「チャレンジド」を見る。
チャレンジドって題名はなんとなく感心しないのだけど
ドラマはよかった。
教員をやってた人が目が見えなくなり、復職を目指す話。
佐々木蔵之介がそれを演じ、奥さん役に富田靖子富田靖子小首をかしげたりむくれたり懐かしい演技をする。しかしそれも悪くない。

復帰をするとき、失敗ばかりした彼はパニック障害で教室に入れない生徒にいうのだ。
「真っ暗闇で、この一歩先も真っ暗闇。怖くて仕方ない。しかしその恐さを否定して頑張らなくてはと思っていた。しかしもう明日からは頑張らないようにする」

これは自分自身が怖さを否定して突っ張っていたことを認めている。誰でも一瞬先は闇なのだが、障害というものはその「誰でも一瞬先は闇」という事実をもう一度目の前につきつける。もう一度来るその恐さを否定しない。そこに恐怖すら感じるものとして自分があることを否定しないで歩むということがけっこう難しいんじゃないかと思った。

障害の受容という言葉がある。けど、障害という固定物があるわけではなく、今そういう条件に置かれた自分の存在をもう一度確かめるってことかな。だから受容というと変な感じがする。それはまるでおしつけられたものを進んで受け入れるような変な感じがある。まるで喜んで植民地になったような。ガンジーは事実、イギリスのインド支配はそれをインド人が受け入れているから成り立つといっている。しかしそれでは自分たちの力で生きているという状態を否定している。

それは支配があったからだ。そこから独立せねばという意識を生み出す。しかしそういう論理におさめてよいのか。実際自分たちが置かれている状態を自分が崩す、問い直す。例えばイギリスの統治への「協力」をやめてみるということから始めてみる。それをガンジーは徹底して進める。

これは喩えだが、いま自分の状態をそこにあるものとして見直すこと。自分はすぐ頭が混乱する。そういう俺がいる。それは与えられたもの=所与である。制約だけではない。それは確かに自分が「疲れている」「やりたくない」という声なのだ。あるいは「ちがう方にいきたい」ということ。あるいは「今はこうしておく」ということ。それだけで、ただ今置かれている自分の状況に対する認識を自覚することに進んでいく。そして所与のものを自分の存在の足場に置き換えること。闇を認めない自分を知り、そこに闇のあることを知り、自分が見えないことをそのものとして感じる。そこから具体的な道が見えてきて…そうでないと前に進めないこと。