細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

思いつき

 統計調査とかはべつにして、社会保障とか行政が把握し、基本として取り扱う単位を基本的に「世帯」から「個人」にしてみるのはどうか。だいぶこの国の制度や人々の意識は変化するのではないかと思ったりする。
 選挙の際にももう世帯単位で送るのはやめにしよう。そっちのがいい。
 自分は昔親と同居している時、親の社会保険証を医療機関に持っていくのは違和感があったので、世帯分離したことがある。行政が扱う「世帯」という区分にならず独立の世帯になっている。そうすると自分だけの保険証ができたので、なんかほっとしたのである。これは気分の問題というのだけでなく、せめてそういう形で自分を法的に「ひとり」の人間にしておきたかったのである。自分は頭が変になったり、苦しかったりして働けない。そうすると保険料は減額される。医療機関を使うから、僕は他の人より安く医療機関を利用しているという負い目がなかったわけではない。しかし曖昧に親の世帯にいながら、働けない、お金がないという苦しい状態にいるよりも、自分は働けないから、そのことを行政も把握するわけだ。所得は向こうは市民税なんかの申告で把握している。自立して生計を営めないが、成人である、大人である、そういうものとして僕がいるということがはっきりする。公的にも自分に対しても。
 民法に詳しくないため、結婚や離婚、出産、相続などのケースで、どういつ世帯としてふたり以上の人間をどう考えるか。これはむずかしすぎてわからない。しかしまずはそのひと「個人」を中心にすえたほうがものを考えやすい。これはケースワークの場合鉄則である。もちろん、様々な関係者がいる、家族がいる、いない、どこに住む、住まないはある。しかしその核となるのはその人であり、そのひとがその人として歩むという当たり前さが自分を含め、あまりにも軽く見られているのではないかと思う。

 自分はたかだか自分でしかないということと、その自分はしかし世界の様々な糧を得て生きているということ、そしてそれを含めて自分のような存在者が、自分と同じようにではないかもしれないが、そこここに存在しているということ。それぞれが対等でしかありえず、しかし様々な異質性を含むこと。その複層性の一挙の現前として自分があらわれているらしいこと。

 また互いが共同して事に当たる旨決意して契約するということが家族の意義であるほうがよい。どちらかの家に入るという感覚だとどうしても様々な支配関係を避けがたいように思う。経済的、精神的に。

 私人間の関係を公権力が大きくは介入できない。しかし虐待など私秘的な密室の中で様々な惨事が起きる。だとしたら、それぞれをひとりひとりとして扱うということが、現在の家族や共同体を本当の意味で救うことになるかもしれない。虐待は親が子を苦しめるから、ダメなのではない。そうではなく、誰かの当たり前に生きて存在することを損ない、奪うからよくないのである。なぜなら、その子供はひとりの親の子供であると同時にこの世界に生きる共同体のひとりの構成員でもあるからだ。「この世界にいきる」ということだけが規定要因であるようなそういう共同体の一員である。これも考え出すとむずかしい。死者はとかになるから。

 あとは親などの先行世代と後続する子や孫の世代との関係ということになる。しかしどうもそっちだけ考えても手詰まりで、あるように思う。もし子供に生きがいを注いだり、まったく注がなかったりしたら、それはどちらもある意味で、そこに思いが集中したり少なかったりしすぎているのである。親のことにしてもそうである。誰かのために人生は組織されるわけではない。もちろん誰かや何かのために専従して分業する場合はあるのであるが、それでもこの世界に生きる事実性として、特定の誰かだけのために自分の人生があるわけではないとはいいたい。この人を愛するということはありうる。しかしそれはその人にすべてを委ねる、賭けるということとちがうのである。そんなことをすれば誰かが絶対者の役を引き受けその責めを負わなければならなくなってしまう。それはよく考えれば不当な話なのだ。

 広がりとして人を考えたい。

少子高齢というと「タテ」の時間軸を考えがちだが、実は多くの(でなくても安定的な)人や社会資源とつながる(ヨコ)ことができれば、家族を形成することも一人で生きることもしやすいはずなのである。問題は、その共同体の形やあり方を制度の方で限定しすぎないことである。自由化がすすんでいるようで、実は各人の寄る辺無さからくる「意識」の保守化が進んでいるように思う。たとえば亀田一家なんかを考えてみるといい。もちろん僕はあの形態にも意味はあると思うのだが、やはり子供たちが「ヨコ」の関係をつくれていず、ますます場所やその職業への依存を深めているようにしかみえない。
 実は社会的には「孤立」した状態、つまりつながり方として「痩せている」状態である。だから父親は闘争モードなのかなと思う。
 孤立ということが所有へのしがみつきを生み、しがみつきが孤立を強化する。スターリン毛沢東もブッシュも多くの手下の長であったが、実は社会的に孤立し、脆弱だからこそその「力」を増大させたのではあるまいか。
 
 話が進みすぎたが、もちろんひとは、ただひとりの生を歩む。しかしその引き受けには「タテ」と「ヨコ」のしっかりしたバランスが必要で、しかしどうもそうならず、痩せた「垂直」性とのっぺりした「平地」だけがある妙な状態に陥っているのではないかな、今自分が生きる世界は。