細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

出てくるもの、失せるもの

     ●出てくるもの

家に帰ったらなつかしいものが出てきた。
それは知的障害者グループホーム世話人(正職員)時代の覚書ノートである。
メンバーさんのことは基本的にプライバシーなので言及できない。ただある時期は週三日宿泊勤務し、その上午前勤務を一回、それから諸々の雑用や運営業務をちょこちょこやってた。ということはいつ休んでいたのだろう。切り替えが下手な私だから、気が休まらなかった。けれど、グループホームは生活の場所であり、いつ突発事、事故が起こるかわからないわけだから気が休まることはない。壊れるのは無理もないのかもしれない。

むかしはこういうノートを見るのも苦しかったが、今はすこし思い出になっているので見返すと冷静に「ひどかったんだな」と思える。職場の改革案や自閉症やケアについての学習の記述などもある。反省の文言も時々ある。自分の心が幼く、引き時や主張する時をうまくコントロールできていない面はあるから使い難い職員であったろう。ただ使う側も弱者支援を正義にして、自己犠牲を要求したりしていた面も否めない。

もうひとつは
本である。大学生の頃読んでた本。

社会人類学案内 (同時代ライブラリー)

社会人類学案内 (同時代ライブラリー)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

構造人類学に興味をもっていたことがわかる。神話や習俗も興味深いわけだが、なにより社会的な、集団や個々相互間の互恵関係、贈与、交換関係に興味があったようだ。
交換の面白い例。例えばある山の村の外れにものを置いておく。例えば山菜等。そうすると海の民が山菜を取り、お返しに干物を置いていく。その干物を山の村の人が取るという交易の形。沈黙交易という。そういうことが赤坂憲雄の本とかに出ていたように思う。
資本主義が世界を覆う中で、交換における心理的、社会関係的なセンスが痩せていっているように感じていた。交換の精神的な側面と、厳密に社会的なシステムの面を構造人類学はたくみに腑分けしたように思う。レヴィストロースが、未開といわれてきた社会もシステムとして、西洋の合理主義と別様の合理性をもち、どちらがすぐれているとは一概にいえないといった。自分は個人主義で、まさに子供の頃から消費社会の真っ只中で育っている。しかも子供の頃は人間関係がうまくやっていけず、苦しかった。大人になっても苦しいのはかわらなかった。だから「交換」とかやりとり、関わりが気になっていたのだと思う。その上、この社会はどうも搾り取られることが多いため、ぼうっとしていたら損ばかりする。そのため対等な交換を望んでいたのだ。それは自由の前提だ。
もちろん公的な部門を立て直して、不平等や不公正をなんとかしなければならない。同時に人付き合い、社会関係には様々な非対称性がある。それは不公平のようにも見える。しかし例えば僕の大学の恩師と僕の関係のように、例え相手の社会的地位、年齢、学識が同じでなくても、むしろ違いがあるからこそ、情報交換や交流が可能になる面がある。兄弟や親との関係にも、友や恋人にもあてはまる。対等や公正がなければ関係は続かない。しかし毎回等価交換ではない。様々に世話になったり報いることで関係は成り立つ。そこには互いの差異にひとかたならぬ感慨と慈しみがあるからだ。だから憎しみや怒りも多く含むことにもなる。
つまりなるべく対等・公正が目指されるべき側面と、立場の違いなどによって関係が豊かになる側面を敏感に感じ取っていった方がいいなと思うのだ。交換のそのような二側面の倫理性を忘れないこと。それはいきるために必要である。どこが譲れないか。どこまで相手との関係性を複層的に考えられるかということが大事だと思う。いまここにある不公正や逆に美しい状況をしっかり認識するために。

アスディワル武勲詩

アスディワル武勲詩

これは出てこなかったがマジメに読んだ思い出がある。検索したら簡単な紹介あり。→pandaemonium.net

もうひとつは欲しいなあと思っていたシモーヌ・ヴェイユの本『重力と恩寵』が昔買ったまま忘れて積んであったことだ。2003年頃のレシートが入っていて、その頃非常に精神不安定で読めなかったままだったのかもしれない。

        

           ●失せ物


同時に最近2回も切符を失くしたり、障害者手帳のバス証を失くしたりしている。
一番驚いたのは、これは私の責任ではないのだが、卒業から一年経っても、福祉施設での実習簿が返却されない。もう少し早く問い合わせたらよかった。しかし様々な意味でそういうことを考える、連絡する余裕ができたのが今だったのだ。今日問い合わせたら、送付したはずだという。そうすると郵便事故しか考えようがない。もちろん自分が住所欄を書いたので万が一住所がまちがっていたのかもしれない。そうだとしたら仕方ない。しかし、向こうに過失は無くてもこちらもなかなかそうですかと引き下がり難い。だからといって、ぶちぎれるのもなんかちがう。だから一応念のためどこかにまぎれていないか、調査をお願いした。再度その結果を連絡してくださるはずだ。一生懸命かいたし実習指導の先生も、実習簿は思い出になりますよといわれていた。
なくなったら悔しいが、仕方ない。もう一年経ってるからな…とはいえ、一年たっているとはいえ郵便事故だとしたら、学校に追跡調査(日本郵政のホームページからできるようである)をしてもらうことも検討している。ほぼ絶望的だと思うが。学校の担当者も、はじめてのケースらしく困った様子で話していた。世上第3種郵便を不正利用した事件もあり、社会福祉士の養成施設は第4種で送るのだが、これも安全ではないのかもしれない。そんなことも思った。悔しいなあ。。

しかし今のところ様々な怒りや不条理を一応冷静に認識する練習をしていて、あまり大きな混乱はない。少しずついきます。