細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

十人のうち三人

これ見に行った→http://taoism-art.main.jp/index.html

かなりシュールな世界で頭がくらくらする。妙見さん、安倍晴明、浦島太郎、お中元、七夕、こういった日本にもある習俗が道教の広がりの中に位置づけられていると知った。
気味の悪いような、愛らしいような、そういう世界の神の姿がまんさいなのだった。見に来ている人も不思議な人が多かった。僕はかつて知的障害者の施設で働いていたが、そこのメンバーの人の姿も思い出した。自分の笑い泣きみたいな不思議な表情のひとが多く、仏とはまたちがうと思った。仏は様々なものを見通す、透明なすっとした賢い感じがある。しかしもう少しまどろっこしい屈折のようなものを感じるのだ。

元々は神仙、つまり仙人というこの世とあの世をつなぐ存在への信仰があり、それは様々な自然信仰とつながる。易や八卦陰陽道といった古代のコスモロジーも接続する。老子の「タオ」がそこにある色合いを与え、儒教の影響も受け、仏教の影響の中でもそれと共存してきたものなのだった。
つまり中国の長い歴史とともに歩み、その都度形を変容させてきた「メディア」のような存在。山海経といったテキストもあるが、様々な宗教や人々の願い、幻想を映し出してきたのが道教のようなのだ。

日本では役小角修験道安倍晴明陰陽道、それから閻魔さまや浦島伝説に見られる亀や鶴を偉大な生き物としてみる考えに影響を与え、様々な神話や習俗、伝説の形になって、私たちの生活に影響を与えた。
役小角は奈良の葛城山、安倍晴明は大阪の阿倍野区に彼を祀った神社がある。(どうも全国各地に安倍晴明を祀った社があるようなのだが…一応清明の出身地は現在の阿倍野のあたり)また、安部晴明が頼まれて、菅原道真を祈祷する儀式を行なったのが北野であり、恐らく現在の北野天満宮のある場所のようだ。関西にも馴染みがある。恐いような、馴染みであるが。

陰陽というように、人を救済し超自然的な力や望みを与えると同時に、人が死んだり破壊されたりする場面でも力を発揮するのがこの道教の特徴か。様々な人の身も蓋もない念を媒体として、様々な人の運命の不条理の連続の中で、生きながらえてきたのかもしれない。いささかヌエ的である。というか人が生きることがそういう正体不明の不気味なことかもしれない。老子道徳経でこういう説がある。

人はこの世に生まれ出て、また死の世界へと入っていく。柔軟に弱々しくして生きながらえることのできる人は十人のうち三人あり、堅く強ばっていて死んでしまう人も十人のうちに三人あるが、生きている人でわざわざ自分から死地へと移っていく人も、また十人のうちで三人ある。そもそもそれはなぜかといえば、あまりにも生命を守ることに執着しすぎるからである。
聞くところでは生命の養いかたにすぐれた人は、陸地を旅するときは虎や兕(じ)といった猛獣に出会うことがなく、軍隊に入ったときにもよろいや武器で身をかためることがない。兕もその角をぶつけようがなく、虎もその爪をひっかけようがなく、武器もその刃をうちこみようがないのだという。いったいそれはなぜかといえばかれには生命に執着するという死の条件が無いからである。
(金谷治『老子講談社学芸文庫の159ページより引用。老子道徳経下篇50「生に出でて死に入る」という節。金谷治の訳による。)

この十人のうち三人という言い方も奇妙だが強くても弱くても人は生きて死ぬということかなあ?あと、なぜかなんの守りもしないひとは、傷つかないというのだが、確かにそれは仙人かなともおもうし、でもそういう不思議な、柳に風みたいな感じで生きている人もいるだろうなと思う。なんかの知恵にちがいないが、どう習得していいかはわからない。
けどなるべく物怖じしないけど、ダメージばかりでもないようなあり方というのは、自然とかそういうものの本性に忠実であれば、その法則(といえばいいか)を経験をつうじて学ぶことはできるように思う。それが年をとってできるものなのか、幼い子供でもできる気もするし、いくら年をとってもわからない人もいるようなものでもあるんだろう。それを目に見えるような形にすれば確かに奇妙な生き物や、不思議な神々のように描くしかないなとは思う。けっこう濃い展示だった。疲れた。なんか滋養はあるが、濃厚な味のものを食った感じの疲労感。ご利益というか。帰って生姜鍋をしたらうまかった。