細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

朗読

こないだたまに行くライブハウスの店員さんが退職するので飲み会があり、あれやこれや楽しんでいるうちに、めずらしく「詩の朗読」をしてしまった。自分はまったく不慣れなのだが心が昂ぶりやったのである。石原吉郎の詩を3っつ読んだ。飲み会で読むのだから、べつに朗読会でもないのだが、別れる人に読むのだから、これは意外と「謡う」という行為の本来的なあり方かも知らん。

 耳鳴りのうた   石原吉郎

  おれが忘れて来た男は
  たとえば耳鳴りが好きだ
  耳鳴りのなかの たとえば
  小さな岬が好きだ
  火縄のようにいぶる匂いが好きで
  空はいつでも その男の
  こちら側にある
  風のように星がざわめく胸
  勲章のようにおれを恥じる男
  おれに耳鳴りがはじまるとき
  そのとき不意に
  その男がはじまる
  はるかに麦はその髪へ鳴り
  彼は しっかりと
  あたりを見まわすのだ
  おれが忘れてきた男は
  たとえば剥製の驢馬が好きだ
  たとえば赤毛のたてがみが好きだ
  銅鑼のような落日が好きだ
  苔へ背なかをひき会わすように
  おれを未来へひき会わす男
  おれに耳鳴りがはじまるとき
  たぶんはじまるのはその男だが
  その男が不意にはじまるとき
  さらにはじまるもうひとりの男がおり
  いっせいによみがえる男たちの
  血なまぐさい系列の果てで
  棒紅のようにやさしく立つ塔がある
  おれの耳穴はうたがうがいい
  虚妄の耳鳴りのそのむこうで
  それでも やさしく
  立ちつづける塔を
  いまでも しっかりと
  信じているのは
  おれが忘れて来た
  その男なのだ


自分の中に置いてきた男がいて、その中にさらに耳鳴りがあって。つまりは打ち砕くことの出来ない悔恨なのだが、しかしそれが石原に「生きること」を強い、与えているようにも思える。どこか誇らしげなのだ。

他にも「世界がほろびる日には」や「泣きたいやつ」を読んだ。
実は石垣りんの詩集ももってった。これは朗読しなかったが目で読みながら、改めてその凄さを感じていた。