細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

介入についてのメモ

昨日の続き社会工作 - 細々と彫りつける
上山さんの引用していた斉藤環さんの「親切」についての論考を読んだ。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/saito/bungaku0202.html

「愛は負けても親切は勝つ」。これがヴォネガット最大のテーマである。彼のエッセイでそれを知って以来、僕はこの言葉を至るところで引用してきた。とりわけ治療場面で。治療が不可能な患者であっても看護は可能であるように、かけらも愛がなくても「親切」にすることはできる。ニヒリズムの極北から生まれたこの思想が、このうえない寛容さにつながることは、アイロニーなのかユーモアなのか。もちろん後者だ。
 ヴォネガットのユーモアは、廃墟の中で、どうしようもなく孤独な人間によって発揮されるそれだ。それは無残なトートロジーであり、しばしば誰に向けられたともつかない独語の形をとっている。一つの絶望から生み出される、軽妙きわまりない表現。「ハイホー。」「そういうものだ。」「プーティーウィッ?」その他いろいろ。


「愛は負けるが親切は勝つ」なるほど。含蓄あることばである。どこかに悲しみとわずかな希望がある言葉だ。

あまり軽々しく思いついてはいけないのかもしれないが
自分は福祉経験から往々にして、福祉関係者が「良かれと思って被援助者の生活に介入すること」が「小さな親切大きなお世話」になる場面もあったなと自戒する。とくに自分が福祉サービス利用者としての割合が大きくなってからはそうかんじるようになった。

介入というとわかり難いが、例えば困っている人と共に考える場合でも、家の様子を見に行くとか、心理的にプライバシーに関わる話を聴く、病院についていく場合でも、身元を引き受ける人がいない場合第三者である福祉職員がついていくなどがある。
介入というと「割ってはいる」イメージが強い。ただその侵襲の度合や方法をどう考えるかということが重要である。もうひとつはそれを当事者が望んでいるか、また援助するものはどういうスタンスに立つかが常に問われるわけである。

社会福祉ではこの場合、本人の生活の課題・困難をその人の側面から寄り添う形でその解決を支えるという意味合いで介入が言われる。大切なのは本人の生活や権利を守るためだ。それ以外にはない。しかし人と人との境界で起こることなので、非常にナイーブな領域でもある。

とはいえ、精神医療で言うと危機介入の段階になると、緊急に保護・措置という形を取り、非常に本人の自己決定を必ずしも最優先できない場合もある。自殺や暴力行為といった危険性が高く加害・被害の危険性が高いケース等もそれに当たる。


しかし基本的には双方向に、(この場合援助者・専門家と被援助者)親切というか、互いの立場を尊重しあいながら、しかし互いのまずいところ、非対称性、ちがい、わかりにくいところについて、率直に確かめ合うことで、信頼関係を深める。「親切」はそうしてより良い援助に向うのだと思う。

親切というと世の中では良い面が強調されているが、もちろん上山さんが危惧されているようにそこには、押しつけや独善の危険も伴うわけだ。だから、そこの危険を上山さんはすごく考えられていると思う。

あまりにも「愛」や「熱意」が勝ちすぎてそれを援助者が疑えなくなる危険。良かれと思うことが「同一化」を強いることになってはいけない。
あるい当事者が意地を張る場合。そこには心の問題だけでなく、様々な問題系、潜在的であったり、支援する側にはよく見えていなかったり、本人でさえどうしていいかわからないものが隠れていることが多い。

わからないものどうしで、しかし相手の言葉や非言葉から見えるものを参考にしながら自分の見えざるニーズを探っていくこと。あるいは援助者自身も自分自身の葛藤をよく知ろうとすること。

援助は、つねに盲目で偶発的な現実の中で起こる。だからそれへの勇気と恐れを等分にもつこと。それは固定的ではない。援助やサービスを受ける側といわれる側でも様々な生産・労働は起こっている。しかしそれを言語化したりするのは、その現場ではすごく難しい。いつも不完全な解決の中でもベターなものを探るということ。(神の視点は、おうおうにして邪魔になる。人間はその都度、変化しながら生きていてそこに喜びや苦を感じるのだから。ただ、自分がよくわからない諸要素から成り立っているという謙虚さ=神に対する恐れに似たものはあってもいい。というか、おもにキリスト教や仏教が慈善救済事業を、近代初期まで支えてきた意味を考えてみよう)

人間がエゴを持つ限り、どうしても相手を良くしようとしてかえって相手にうざがられ、また相手を破壊することがありうる。(これをフーコーは牧人型権力と呼んだのか?)しかしもしひきこもりや貧困の度合、あるいは病状が深まると、死ぬかもしれないとか、今後の人生の質が大幅にさがる危険が出てくる。そのとき、援助者は大きく相手の生活に介入せざるを得ない場合が往々にしてある。

これはよく日常生活でも起こりうることである。
友達が借金で苦しんでいる時、逆に自分が病気で困っている時、どちらのケースでもそこのやり取りは難しさが伴う。
相手や自分のこれまでのあり方の見直しを伴うからだ。

つまりこれは専門家VS当事者という面もあるが、違う事情を持つもの同士として、様々な違いと共通性が交錯する場面なのである。

だから援助者も被援助者も絶えず複雑な葛藤を経験するのである。

そういうときどういうふうにささやかな「親切」を差し出せるか。受けとれるか。そこにどれくらいの「愛」が必要なのか。あるいはそこで交流し断絶する感情やものは何か。どういうプロセスを踏まえるのか。
確かに人間という存在の有限性とか、無力を思うことで初めて「親切」が力を発揮するということがあるかもしれないと思う。

あまり考えは進んでいないがついでに参考に以下のサイトを挙げる。
http://www.livingroom.ne.jp/e/0403hy.htm
同じ樋澤氏の「介入」に関して
http://www.geocities.jp/dayswamp/kiyou-30-1.html

これを読んでまた自分も考えてみよう。