細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

おぼえがき―依存と文化

薬物依存についてはほとんど勉強してこなかった。

けれど先日も書いたように依存症(アディクション)と文学も深い関係にあるだろうことは容易に想像できる。(もちろんそれからのがれられた人もいなかったわけではない。しかしヘミングウェイはどうか。日本の無頼派はどうか。三島のボディビルはどうか。石原吉郎アルコール依存症だった。セックス依存的な人は、あるいは暴力を繰り返す人はいなかっただろうか。また文学だけでなく依存はあらゆる社会領域で起こりうるだろう)僕のよく読んだ作家では中島らもが、そのことを公言した人として近しい。その頃ノイローゼ真っ最中だった僕は勇気づけられていた。壊れていてもなんとかなるかもしれないと。
僕の地元は関西で、そこではテレビや舞台でも謎のおっさんとして活躍していた。けっきょく酒を一時をたったが、完全にはたてず他界した。友人のライブ帰りに転倒して亡くなったのだった。

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)


中島らもは彼がアルコール依存症から離脱していく過程を描いた「今夜すべてのバーで」を書いた。その中で「究極的には人は依存なしで生きられない。文化や社会もすべて依存のメカニズムを持つ」というニュアンスの(今手元にないので)発言を医師に向かってしていた。
ここには深い問いかけがあるように思う。生きていく中で誰も障害やハードルを避けることはできない。しかし様々な条件の中で生きることがうまくいかず、そのうまくいかなさを見つめることが大変苦しい、辛い人がたくさんいるだろうと思う。つまり心細くてさみしくて仕方ないのだった。

これをフロイトは「否認」といったのだろうかなとも思う。
そこには精神分析や人間の心的構造の解明の理論があるのだがそこはいったん置く。

もちろん失敗を繰り返す中で学んでいくことが出来る場合はあまり問題はない。ただ、学んでいくにも自己形成の下地、あるいは培地(自分は根源的自恃心というふうに読んでみたい。自分は生きている・生きていけると思う心持ちの様なもの)がなければいけない。つまり失敗しても次にいってちがうことが待っていると思えるようなしなやかな感性がないと苦しい。絶えざる不安や不安定にさいなまれることになる。

しかし何をしても、また同じように嫌われる・苦しむということなら、人は次にいけない。同じ裏切り、同じ失敗が新しい現実でも待ち受けていると感じたら、そう思う心的機制があったら、その現実から回避する行動をとるしかない。僕も依存症ではないが、そのような場所で何度もつまずいてきたから。つまりそのような障害や傷をどこかで身についたのだ。これは深い。だから依存症の治癒はなかなか困難な側面をもつ。

その繰り返しがさらに回避行動としての嗜癖・依存を深めるのかもしれない。嗜癖や依存が深まれば、そこから脱出できなくなる。文学や宗教、社会体制も似た課題を抱えている。だからこそ仏教では「執着」からの解放が説かれたのだし、キリスト教では、その嗜癖から脱出する理念として「愛」が説かれたのではないだろうか。これらの世界宗教は、人々が己自身を深く知ることではなく、生きている業から逃れられない、はまりこんでしまうことに傷みを感じていたのだろうか。だからこそ己を知り、己が自在に存在できる瞬間を少しでも多くしていくことを目指したのだろうか。

たとえばAA(アルコール依存症自助グループ)では最初に綱領を読む。ただ、それは何かの神を信じなさいとは書かれていない。それぞれの信仰や価値、大切なものを持ちながら、断酒を行なうよう推奨されている。

自分の信念をもちながらも、自分たちが自分自身を生きやすいように学んでいける・変えていけるといわれる。変えられないものは無理に変えない。その無力を受け入れることで変わるための一歩が踏み出せると。僕もいろいろ紆余曲折があったが、少しずつ自分自身でありながら、変わっていけると思うときがある。そうでなく絶望にさいなまれることもある。

また、依存症が問題なのは、それが自分や家族を滅ぼすからだ。無理やり止めさせるなら自棄になったり更なる混乱が起こる。例えば治療への導入は意外に難しい。そのため周囲の人への支援や危機介入のタイミング、粘り強い断酒の作業といったことしかないようだ。しかし身体や心の依存が深まれば生きていくことができなくなるため、その依存を解除していくようなのだ。そのために様々なプログラムがあるようだ。*1

僕の詩の先輩がかつて「世界との親和性を回復すること」といった。それは悪しき体制に染まることでも、良いことばかりを求めることでもない。まだ自分にはよくわからないが、目の前にある現実を何のてらいもなくみることのできる力を育むために、確かに人や自然の存在を感じることなのだ。そこで初めて、それを阻害するものからの戦いが始められる。これは依存症・嗜癖にかかわりなく事実であるように思われる。

文学もまた、ある部分でものを明晰に見、描くことからしか始まらない。そこからしか夢や、幻想の記述も難しいと思う。

僕は自分の心や現実に向かい合うとすぐにでも逃げ出したくなるし、今は少し安定しているがいつまた破綻が来るか恐いときも多々あるのだ。
その上で言っている。
ただ現在の社会はある意味で主観的な「生きにくさ」の大きいように自分は思う。それを考えるためにはとりあえず都合のいいもの、悪いものどちらもみないとならんなあと思う。

*1:参照:テスト

援助者必携 はじめての精神科

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