細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

覚せい剤のこと―田中小実昌・野坂昭如対談

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田中小実昌 (KAWADE夢ムック文藝別冊)

田中小実昌 (KAWADE夢ムック文藝別冊)

に戦後すぐの新宿の様子が出てくる対談があった。
時代も変われば恐ろしく価値観が変わる。その典型のようでもあるが日本がいったいどういう社会か考える上で興味深い。ある意味あんまり変わっていない。

(田中)新宿の大ガードのところを通り越して角筈のほうへ行くと、昼間見ると星みたいにたくさんあいたトタン屋根の下でおばあさんがご飯をたいているわけです。なぜか大釜じゃなくて、そこで待っているとご飯が炊けてきて茶碗一杯三十円とかね。漬け物くらいはあったかもしれないけど、おかずは自前で持ってくる。頭のいくらか禿げていて、髪をきゅっとつめて、背がちっちゃくて顔が丸いおばあさんで、そこでメシくってるのは香具師とかパンスケで、ふつうの人はあんまりいませんでした。

(野坂)和田組マーケットの中に「おかずや」というのがあったですね。経営しているのはみんなヤクザで、ちょっとわきへ回るとヒロポンがあった。

(田中)和田組はテキ屋ですからね、でもヤクザじゃない人のほうが多かったですよね。

(野坂)あの頃は変な商売してたですよ。新宿の道路を竹ぼうきで掃除して回ってた。光は新宿から、って言って尾津喜之助っていう親分が浮浪児集めて竹ぼうき渡して掃除をさせていた。ゴミ集めて燃して、寒いもんだから寄ってくる奴から金とってたね。それをまたヤクザに吸いとられてみんなヒロポンうってた。夜起きて掃除してると眠くなる、そこでいいものがあるってんでヒロポン打たれる。なんのことはない、掃除してヒロポンうってるって感じだ(笑)。

(田中)大分あとだけれども、横浜セントラルでギャラのかわりにヒロポンやったっていう話がある。今、覚醒剤というと麻薬ものみたいに見られて大変にわるいものみたいに思われるけど、ヒロポンうってないのは珍しかった。ぼくは飲むのに忙しくてヒロポンどころじゃなかったけど。

(野坂)特攻隊も挺身隊も活力を与える剤ということで、よく覚えてないけどひどく漢語めいた名前*1で与えられてましたね。

(田中)明日試験だっていう時に「ヒロポンないか」って言ってクスリ屋へ行くと、「ヒロポンないけどカルチモンならあるぞ」ってクスリ屋が言ったって言う笑い話があるんだ。錠剤がありましたね。

(野坂)ぼくは昭和二十四年当時、麻雀でくってましたけど、眠くなるとどうしても負けるから錠剤を飲んだ。いい手がつくような気がしてね。あれは躁と鬱を人工的につくるみたいなもんだから、躁になった分だけ、あとで鬱になっちゃう。それでまた飲むというくりかえしで中毒になるらしい。ぼくは、ウツになったらすなおに蒲団かぶって寝てたから簡単に切れましたけどね。昭和二十七年頃、ぼくはヒロポンの運び屋をやってたことがある。鶯谷に密醸所があって、そこから新宿の朝日町まで、学生服着てれば怪しまれないってんで、百ccのアンプルを七本くらい新聞紙に包んで運んだ。卸が八十円で新宿に運んでくると百二十円、七本で二百八十円の見入りになるから割がいい仕事だったけど、このアンプルのガラスたるやものすごく裂れやすくて、こっちとしては、ま綿にでもくるんで持ってゆきたいんだけど、それじゃダメだ、学生カバンに入れてさりげなく持ってくると裂れちゃってる(笑)。

(田中)ぼくは手伝ったわけじゃないけど、ヒロポンのインチキ・アンプルをつくっているやつのそばにいたことがあります。中身は水なんですが、水がでなくなって便所の水洗の水を洗面器にくんで運んだことがある。二人は本物のポンうってハア、ハアいってインチキ・アンプルつくってるんだからひどい話ですね。しかし当時ポン中っていうのが今、しっかりしてますよ。当時ポンうたなかったやつは死んじゃってるとか、ダメになっちゃってるとか。ポンうってたやつはポンうって仕事しようという気があるんですね。焼酎飲んでたやつが仕事しようって気があまりない。

(野坂)ポンは逃避的なものでなく戦闘的なものなんじゃないですかね。

(田中小実昌野坂昭如「戦後ちょんぼ風雲録」初出『不純異性交遊録』三笠書房1974→「文藝別冊<総特集>田中小実昌河出書房新社2004)

おそろしく身も蓋もない対談である。しかし薬効に関しては「あれは躁と鬱を人工的につくるみたいなもんだから」と依存性をせいかくにとらえている。よくアッパー系とダウナー系という言い方があるが、覚醒剤はその名のとおり、交感神経優位の状態(つまり戦闘モード)をつくる。戦時中に大日本帝国が兵士などに配っていたのも事実だ。

彼らはユーモラスに話しているが、その背後にはそうでもしなければいきられない状況があったとしかいいようがない。

覚醒剤はシャブ、エス、スピード、ポンなどの名前で呼ばれる合成された中枢神経刺激剤です。アンフェタミンあるいはメタンフェタミンというのも同じ薬のことです。年輩の人にとっては、ヒロポンという薬は良く知られているでしょうヒロポンは、メタンフェタミンの商品名です。
覚醒剤が最初に使われるようになったのは、第二次大戦中やヴェトナム戦争中に兵士の能力を高めるためです。日本でも、第二次大戦後軍隊が使っていた覚醒剤*2が市販され大量の依存症の患者が生まれました。戦後の復興という重苦しい時期を乗り切るために、多くの日本人がこの覚醒剤を使いました。天皇の終戦宣言(いわゆる玉音放送)のなかに、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という言葉があります。そのような状況では、多くの人が覚醒剤のような薬の依存症になりうるのです。
最近、若者の間に覚醒剤が拡がりつつあります。
あなた自身のためのQ&A

かつて鶴見済がその著書『人格改造マニュアル』で、皮肉っぽく「世の中が変わらないのなら自分の心を薬や様々な人格変容の技術で変えていきやすいようにせよ」と書いていた。それを思い出す。
そうでもしないと「乗り切れない」「やりきれない」ということが背景にあるのではないか。そこにあるのは傷みや苦しみなのである。

上のふたりの対談を思い出したのは押尾学在日米軍基地で軍人相手に15〜6歳のときにハードコアパンクを歌っていたということを聞いたからだ。彼はその前8年間親の仕事の関係でアメリカにいっていたため日本語がわからなくなっていたらしい。また酒井法子は彼女を生んだ両親が早くに亡くなっていることも聞いた。

偶然の符合だが、田中小実昌はその英語力を買われ在日占領軍基地でも働いていた。一方野坂は「火垂るの墓」でも知られるように戦災で妹を亡くしている。

そういう境遇だからと云って、覚醒剤合成麻薬を使用することを善しとはしない。だが、田中や野坂のいうように日本では生きるために「酒か薬」を乱用した人が多く出た時代があった。その前に国家は覚醒剤を使っても戦場に兵員を送り込んでいた。そこで人々は多くの財産や生命を奪われた。その覚醒剤が市中に出回ったことをきっかけに、中毒者が大量に出たのだ。(追記・坂口安吾らの無頼派の面々もヒロポンをつかっていた)そういうことは覚えていても良い。

ここには今の私たちの生き辛さを考えるヒントがあるように思うのだ。そこが変わるか、適切な療養プログラムを社会的に周知させていくかしか今のところないように思う。薬物に手を出す人間を弱いとか、悪者と切って捨ててもどうしようもない。人間辛いことは辛いといえなければ、精神を無理やり作り変えて現実に対抗するしかなくなる。

自分は精神科に言っている。もちろんそこで処方されるのは医療用だ。しかし、社会のせいかどうかは別にして、自分の行く精神科でも予約はいっぱいだ。薬を飲んで調整していかないと耐えられない人々や状況が事実あることはいなめない。実は精神科で年金や手帳の申請をするとき、薬物中毒という項目も診断書にはちゃんとある。もちろんそれは他の精神疾患とは治療のプログラムが少しちがう。ただ今の社会制度では「依存症・中毒は精神疾患*3なのである。これも覚えておいていただきたい。

ちなみに自分は焼酎が好きなので「仕事しようって気があまりない。」のでしょうか??

*1:1941年に「ヒロポン(大日本製薬)」として販売が開始されると、政府が軍需工場の作業員に配布したり、夜間の監視任務を負った戦闘員に使用させていた。夜間戦闘機の搭乗員に、「夜間視力向上用」として渡した場合もあった。---吶喊錠・突撃錠・猫目錠である。痛みと鎮痛の基礎知識 - Pain Relief ー薬物依存、依存性薬物(「痛みと鎮痛の基礎知識」より)

*2:一つは覚醒剤の問題、これも前から関心があるんですけれども、よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて、アメリカ軍のパイロットの場合、ドイツへの爆撃に例えば十回出撃すれば、その任務から開放されて後方に下がれる、そういうことがあるわけですけれど、日本の場合は死ぬまで闘わされる場合が多いので、非常に疲労している。ですから戦争神経症も多いようですけれど、その疲労対策で覚醒剤を打っています。また、海軍の軍医の雑誌を見ていたら、見張りの水兵が、夜間、双眼鏡で敵の船を監視する。レーダーが発達していないので、原始的なやり方ですが、夜間の視力を増強するために覚醒剤を打っているんですね。これが効くのかどうかわからないんですが、兵隊の回想にもそういうのがあって、僕が読んだ回想では、夜間戦闘機のパイロットが、戦後ずうっと原因不明の病気に悩まされて、一向に原因がわからない。最後にわかったのは、覚醒剤中毒になっていた。なぜなってしまったかというと、夜間戦闘機として出撃する場合に、夜、目が見えるようになるという理由で、毎回何か薬を打たれていたということがわかって、それが覚醒剤だったんですね。そういう形で、疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて、それが戦後一斉にばあっと民間に流れてくるわけですね。そういう問題があります。(人骨発見18周年集会記念講演「医学史から見た戦争と軍隊」吉田裕)より

*3:追記・精神作用物質使用による精神及び行動障害という。ただし急性などの場合は年金取得は難しいようだ。精神障害(精神病、うつ病、神経症、認知症、てんかん等)と知的障害に対する障害認定基準(障害年金の解説)