細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

関わるということの恐さ―先ほどのエントリの続き

前エントリの続きhttp://d.hatena.ne.jp/ishikawa-kz/20090806/1249541975

  • 適正手続き


 思い出したことがあった。裁判員と直接関わることかどうかはわからないが
かならず大学の憲法学や法学入門で習ったのは「due prosess デュープロセス」という言葉。なぜかよく覚えている。法学の点数はあまりよくなかった。
適正手続き適正手続き条項日本国憲法第31条 - Wikipedia)と呼ばれる。例えば裁判で、被告がいる。被告にどういう刑を課すか。課さないか。お沙汰をする。その中で何の手続きも媒介もなかったらいけない。
弁護士をつけ、弁明の機会を必ず与える必要がある。なぜか。日本国憲法はその憲法の及ぶ人全ての基本的人権を保障する。そこには自由権社会権各種ある。長期間服役すること、罰金を課すこと、死刑にすることは、まだ刑が確定していない被告の、人生の時間や機会、移動職業の自由を奪うし、罰金は財産を奪うし、死刑は命を奪うのである。

だから適切な弁明の機会、そのための仕組みを設けることなしに(行政手続きの場合聴聞など)刑を科して権利を奪うのはいけないのである。

ちなみに刑事訴訟の場合、原告は、検察になるはずである。もちろん被害者ではない。被害者の立場は充分尊重されねばならない。かれらも基本的人権を毀損されている。ただ、私刑してはいけないのでそれでは国民同士の喧嘩になるので、そこに公権力が介入している。しかし今回の場合、あたかも原告は被害者家族のような感じではなかったか。危険である。

僕は、裁判員制度の意義が国民の参加を強化することにあることを理解する。そして真実にその目的が果たされればいいと思う。しかし僕の正直なところでも、自分たちが公権力の行使、しかもその人にどのくらいの罰を課すかという判断をすることが大変に責任が重く、それに押しつぶされそうな不安があるのだ。
もし選ばれたら。

裁判官や検察、弁護士はいってみれば司法試験にうかった人である。だから彼らにアドヴァンテージがある。正直素人の判断って何なんだろうと思う。


  • 被害・加害についての思い出

 いきなり話が飛ぶ。

 自分が思い出すのは小学校の卒業文集に、書いた文章だ。自分は小学校4年生の時同級生から暴力を受け、左鎖骨を骨折した。そのことを卒業文集に書いた。「大人なら有罪だ」と。もちろんいじめられたらそうなる。

 そこから、自分の被害者意識人生が始まったかもしれんな。小学校6年の時は盲腸を下痢と誤診されて腹膜炎になり死にかけた。

 でも、そのとき悲しくて苦しかったことは、被害を弁償してほしいということだけではなかった。それよりもどこへ訴え出たら公平なお沙汰が出来、自分の気持ちが晴れるのかということだった。正直先生に、親に相談しても、自分の苦悩は晴れず虐めは解決しなかった。その子が転校してあっさりそれは終わった。
 自分には訴え出たり、話をして自分の心を打明けることはできないという絶望ばかりがあった。解消不可能な思い出である。だからいつも本心を隠してがんばって生きねばと思ってしまう。いいかえれば「本当の被害」とはこの複雑怪奇な絶望である。世界や社会から切り離され自ら切り離す辛さである。乖離である。そこが回復したい。

 僕が自分にとって社会に参加する意義が何かというと、自分はこんな奴だが、この世界に生きていていいかという疑念が少しでもマシになることである。もうひとつは、それでも困ったことがあったら、どう解決していくか考えられればと思う。
 自分は生きるのが恐くて嫌だという思いが底にあるから簡単に人は、その中で生きるということは信用できない。だが、今のままでも辛いのだ。そういう自分がいうのも何なのだが自分の場合は虐めでの「出口なし」「訴えるところなし」というのがこの社会への否定的感情の原型である。そうしてどんどんやさぐれていくのだ。つまり参加したいのに、すぐ投げ出したくなる。それがきわまれば僕は生きるのがいやになる。実際よく嫌になり自棄になる。そういう不安定状況を生きている。



       

  • やるならもっと腰をすえてやる。その条件を整備する。そうじゃないならこの制度はやめたほうがいい気がしている。あるいは民事訴訟からはじめたほうがいい。

 裁判員制度とは上のブロックまでの話は関係ないかもしれない。が、裁判員も何もかも皆がそういう絶望的なことや頓珍漢な意見も腹蔵なく言うなら、もっと時間が必要だ。終わりなきホームルームみたいになるのもいやだから、期間は限定する必要はあるかもしれない。しかし簡単な審理とか難しい審理なんてわけられるのか?もっと多角的に検証し、関係者がいいたいこと、いいたくなかったことをいい、それぞれが良心をかけてやるなら、もっと参加ということを「お仕着せ」の形ではしないほうが良いと思う。

 広くオオヤケにやるのがいいなら、原告、被告双方に対して、それぞれに都合のいいことも悪いことも裁判員が一生懸命いえるようにしたほうがいい。それが、「何が起こったか」を検証し、どう評価するかということだ。そうでなければ、こんな仕組みは一旦保留させた方がいい。
 誰も覚悟なんかない。俺もない。しかし数日で審理とか、「わかりやすく」と連呼される度、その根本にある「事件の検証」とか「適正手続き」とかは置いてきぼりなんじゃないか。実は人を裁くスピードを速めたいだけなのではないかと。
 
 そう。いくら結論が憂鬱でもよいので、とにかくひとつひとつやり抜くことである。それにはその場にいるもののそれぞれの姿勢や意見が出しやすく反映されたほうがいい。実際もって帰るのいやだし。しかし関わったんだから責任をもっていわせてもらう。そういう自由は保障されているの?ってことだ。被告も被害者も一生の問題なんだけど。そう「絶望の狭い穴」つまりカフカみたいな迷宮とか、井伏鱒二山椒魚みたいな出口なしの狭い穴から顔出して息を吸いたい。その感情は裁判員と関係あるかすらわからん。しかし、被害加害が生み出すのはそういう「出口なし」のややこしさである。

 そうして、起こったことが何なのかその意味を考えることである。その先に罪を法にのっとって当てはめるという何とも気の重い作業があり、初めて「罰」とはなにかがある。これはもっと気が重い。しかしリアルな映像はいいから、もっと多くの関係者の証言である意味カオスになり、かなり長い期間考えることになることになっちまうだろう。本来はそうなはずだ。事件とはそういうもんだ。もう大岡越前みたいな勧善懲悪は無理ってわかっているだろう?国民参加とはそういう気の重いことにいきなり関わるという恐いことだ。それは多くの人が気づいている。今回裁判員に選ばれた人はどう思ったのだろうか。ねえどうしたらいい?