細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

リアリズム

昨日は

田中小実昌 (KAWADE夢ムック文藝別冊)

田中小実昌 (KAWADE夢ムック文藝別冊)

を読んでいた。
しかし高橋源一郎のインタヴューが小実昌評としては違和感がありすぎて
途中で放り出してしまった。
娘さんの話や、人類学者の西江雅之さんの短いエッセイはよかったのだが
それ以降あまりよくない記事が並ぶ。高橋源一郎はどこか斜に構えていて、それが昔は面白かったのだが、なんとなく僕の読んだ小実昌さんの小説とはまるでちがうことを書いていた。

(インタヴュアー)『ポロポロ』という小説は、戦争を体験してきた人たちがその経験をさんざんかいてきた最後に出てきてその座をさらってしまった観があります。戦争の体験を書いているけれども、すごくドライですよね。

このまとめにもひっかかるが高橋の答えを聞こう。

"よく寝かしたワイン"みたいなものですよ。みんな初めは"ボジョレー・ヌーボー"に飛びつくんですよ。「新しいのがいい、これは生々しい味だ」と、そういえば二〇世紀でワインの味が一番良い年は、何年か知っていますか?一九四五年なんですよ。

ワインに喩えるのは、ワインにも田中小実昌にも幾多の戦争小説を書いた人にも、なんだか失礼に思えてならない。
もちろん小実昌さんの戦争小説(?)がこれまでにないものだったことは認めよう。しかしそれでは、他の戦争小説が生々しさ、新奇さを競っていたかどうか?
坂口安吾の作品を考えてみよ。太宰はどうだ。大岡昇平は??安岡章太郎は?あるいは長谷川四郎は。私が読んだものだけでも現場のリアリティのみを強調したものではないことが容易にわかるというものだ。
しかも彼らは「戦争」を題材としながら、文章や認識を練り上げたはずである。つまりそれは戦争が生み出した芸術でもあるが、芸術そのものの試練であり戦いでもあった。だから本当は「戦争小説」という括りも問題的である。

しかも高橋はその戦争自体を時流や歴史的パースペクティブから離れ、人間や世界の経験として捉ええているか甚だ疑問である。真面目に書けといっているのではない。そうではなく次のような文章を読むとき彼のフレームの破綻はあらわではないだろうか。

結局、戦争小説は、ある年月の間にいろんなことが書かれてしまうんですね。まず被害者という側面が出てくる。そして反省。それから戦争をトータルとして捉えようというマクロ的な見解が出てきて、いやミクロな視点が大事だ、いやフェミニズムだと次々に出てくる。そして最後に出てくるのが、戦争であれ何であれ、書くのは言葉によってだというものがでてくる。だから、『ポロポロ』は戦争小説なんだけど、戦争はテーマではないというところまで熟成しているわけですよ。『ポロポロ』のすごいところは、テーマが戦争だからではないんですよ。「戦争をテーマにしてもこんなことが書けるのか!」というところがすごい。

いやいやいや、昔ならへえーと思った観点なんだが、そんな持ち上げられ方をしても田中小実昌はちっともうれしくないだろう。高橋はおそらく説明のために図式的通時的に戦争文学の成り行きをいうわけだが、こんなにきれいにまとめられるなら、もうそれは文学でもなんでもない。こういう「構造」に気づかずに取り込まれるという説明はわかる。だれも時代的限界は乗り越えがたい。
しかし、今読んでも上記の太宰の、坂口の、大岡のその他多くの戦争を題材にした小説は、あるいは詩歌にはすぐれたものもあるはずである。それを虚心に読み返すならば、こんなことがいえるはずがないということがわかるはずなのに…
「戦争をテーマにしてもこんなことが書けるのか!」というのは戦争をも文学をもないがしろにする危険な発言であると感じた。

高橋の
ぼくがしまうま語をしゃべった頃 (新潮文庫)

優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫)
あるいは
文学がこんなにわかっていいかしら (福武文庫)
これらはけっこう好きな本だし、すぐれた文章家だと思っている。だからどんどん「形骸」のようになっていく高橋の言説は残念だ。
以下も問題的な発言である。

誰かが決めているわけではないですが、エッセイや評論の方が、もう少し形式的に決まっているという感じかな。小説の良いところは、どうなっても「え、これは小説?」といわれない。カントの言葉遣いの話から、いきなり今日食べたものの話をして、またカントに戻っても小説はOKなんですよ。なぜといわれると困るんですけど、そういうものを小説と呼んでいる。それが小実昌さんのやり方にあっているんだと思います。
―小説の方が、より自由なんですね。
(高橋) 何でも書けるんです。

様々なことを放縦に書いたと私は思わないが、西田幾多郎が登場したりたしかに田中小実昌の小説は飛躍が多かった。しかしそれは不可避的に飛躍しているから読めるものになるのである。また真にデタラメに気ままに書くことも非常に困難である。小実昌さんを持ち上げるのはよい。しかし田中小実昌は言語や文学形式の存在拘束性というかどうしてもそう書いてしまうということに鋭敏だったと僕は感じている。決して自由に書いたらこうなったわけではないのだ。素朴に自由に書くということを疑いながらも、自分の経験した実際とは何かを徹底して追い詰めることの中から、田中小実昌は小説を書いたはずである。

死にかけているぼくに、なんで、おまえ死ぬよ、などと軍医は言ったのだろう?
 さっぱり見当はつかないが、ぼくが、きょう死んでも、明日死んでもあたりまえみたいな状態にありながら、死にかけている者のマジメさに欠けており、軍医は意識しないで、それを確かめたのではないか。
 死にかけていて、あまり身うごきもできないが、それでいて、ふーらら、ふーらら、ぼくのかるがるしいところが、軍医の目についたのかもしれない。
 また、ぼくは、もうすぐ死ぬにちがいないが、死ぬ前に、内地にかえれないのがざんねんだ、父や母や妹にあえないのはかなしい、なんてことはまるっきりおもわなかった。
 内地にはかえりたかった。ぼくがなにかをねがったことのうちで、あのころ、内地にかえりたいとおもったことほど、せつなくおもったことは、ほかにはあるまい。そして、内地にかえりたいというのは、父母や妹のいるうちにかえりたいということだ。
 しかしこんな伝染病棟で死ぬのはいやだ、その前に内地にかえり、父母や妹にあいたいとは、ほんとにまるっきり、ぼくはおもわなかった。
 くりかえすが内地にはかえりたい。父母や妹にもあいたい。だが死ぬ前に、内地にかえり、父母や妹にあいたい…というフレーズにはならないのだ。
 ひとには、ごくふつうにあって、ぼくには欠けているものは、このフレーズが成立しないことかもしれない。(田中小実昌『ポロポロ』河出文庫所収「鏡の顔」より)

 たしかに戦争を題材とする小説や言説のパターンに懐疑をはさんでいる。しかしそれだけではない。それが目的というより、自分の見たこと、感じたこと、その現実をそのとおりに話すことがむずかしいことにつまずいていたのだ。
 しかも「死ぬ前に」という前置きがマラリアアメーバ赤痢にかかった彼には理解できない。おそらくただ帰りたい、家族に会いたい以外の何物も考えたくないし、考えていないし、考えられなかったということなのだと思った。これは究極の「リアリズム」といえよう。自分の「真」を守ろうとしているのだ。
 「真」が「偽」になるのはむしろ戦争や社会やつまりは人間が言葉を使って生きざるを得ない時に不可避なのだが、それへ抵抗している。
 だから僕は高橋の評は田中小実昌の書いたものやその目指す方向といちじるしく背反していることに躓いた。でもかんばってもう少し他の文章も読んで見ますね。高橋さんしっかりしてくださいよ。