細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

片倉信夫再見―あのころの私と

昨日のエントリ火星の人類学者を読んでいて - 細々と彫りつけるの続きである。


自閉症なんか怖くない―低機能広汎性発達障害者とのつきあい

自閉症なんか怖くない―低機能広汎性発達障害者とのつきあい

この本読み返してる。著者は、自閉症やそのスペクトラムにはいる人またほかの様々な発達障害者の行動障害や生活のことを考え、ともにつきあってきた人だ。年齢は様々で困難な事例、特に重度の広汎性発達障害の行動障害で困ったところに助っ人としてあらわれるようだ。
特に重度の障害についての理解に深いものがある。重度の障害というと、なにやら「重病」のような感じがする。ある意味ではそのとおりなのだが、それだけではない。私なりに言い換えるなら「人と人との間で生活するのに、我々がいとも簡単にやれることを何千倍もの苦労をする人」と言い換えてもいい。「そしてそのことに苦しむうち、人間関係に入る力も機会も失っていく」ということも付け加えておく。

もちろん片倉さんも、通常発達なるものにも様々な障害があることを認める。運動が苦手とか、人付き合いが苦手、算数が全くダメ。そういうことにも様々な水準がある。しかし人それぞれだから、「そのままでいいじゃん」といっていたら、まずいレベルの障害というのは実在する。それを「みんなちがって、みんないい」レベルに落とし込むことには異論があるようだ。私も同感である。
また現代の文明生活が、様々に人というものにとって苛酷だということは認めよう。しかし私たちは今からでも変革をする必要があるにせよ、そこで私たちは生きている。障害者だって生きている。しかし彼らはわたしたちがわずかな労苦で手に入れられるものを全然手に出来る機会がないとしたらこれは重大な差であり見過ごすのは難しい。

そういうわけで片倉さんは「規範」という言葉を強調する。私もずいぶんひっかかってきた言葉だが、前回のエントリでも述べたように、何もしなければ「醤油の海につかった」おかずを食べる人がいる場合、どうするか。もちろん適量は人様々である。とはいえ、「醤油の海につかる」おかずを食べることは、彼とともにご飯を食べる私や周囲の人間にとっても、また彼の健康にとっても心配である。それ以前に重要なことは、彼がそれを「しょうゆいっぱいのおかずを食べたい」というニーズの選択の上にしているかどうか非常に怪しいからである。

選択どころかまさしく自閉症は英語でautismと呼ぶが、醤油をいっぱいかけざるをえない状況に置かれてしまっていてまさしくautomaticに、機械が何かのプログラムに強いられるように「醤油をかけて」いるとしたら。私は見た。宴会場に行くとビールをみなのコップに注いでいく。しかし気前がいいのではない。そこら中にあるビール瓶を空っぽにしないといけないという強迫状態なのだ。だからといって旅行に行きその人だけ宴会場に入れないというのも何かちがうような。だから私は、時々様子が不穏になってきたら、ロビーに出てソファーで二人じっとしていた。男の子と。複雑な気持ちにもなった。後にその母親の方と笑い話苦労話もした。

しかし切なくもなる。私も宴会は苦手だから、別に宴会なんか出ても出なくてもかまわない。しかし、そういう場面でなくても、シャンプーの液も歯磨き粉も大量に出すならこれは、非日常と日常とか「まったり」の問題ではないのだった。

自分で選択する、しないということに人生の多くがよっているとしたら、そのような機会の戸口に立つことが難しいのが彼ら(彼女ら)にとっての「困難」であるといえるように思う。とすると毎日はそのような「選べない災厄」にあふれているということだ。だから「自閉症」は障害と呼ばれるのだと思う。

もちろん彼らにも非常に高い才能を示す場合もある。しかしそういうことは今は関係ない。ただの人としてぼんやり過ごすことができにくいという事実が問題なのである。かならずしも、すべて現代型の規範を見につける必要はない。ただ、衣食住に関して、そこそこの選択が可能になった上で「俺は山に篭り、水道も電気もなくてよい」というなら良い。しかし認知や行動の難しさはその選択の機会につくことを「恐らくは」妨げている。ある部分だけの高機能自閉症の事例がテレビで紹介される。しかし大部分のそれほどの才能ももたず日常生活に多大な困難を抱えている人が大部分なのではないだろうか。私が現場で見たのはそのような人たちがほとんどだった。

そしてこのことを延長すれば、現代の社会が我々も、多くの障害者や生活の困難な人を度外視したシステムとして成立していることがあらためて問題になろう。(ただ、その手前で、その最中で、その後でもどのような人類社会においてもあるパーセンテージの人を犠牲にしながら成立してきたことを見過ごしてはならない。)


話が長くなりすぎた。片倉さんの文章を見てみよう。僕より経験が深いしユーモアがあるから、同じように醤油かけすぎのことを書いてもすんなり読める。行動障害のひきがねについてである。

「水」が駄目な人は多い。ゆっくり飲めず、イッキ飲みしかできないところから始まり、飲まずにいられなくなる。田んぼに水が張られる季節になると、自主プールする人。池を見ると、パンツまでおろしてしまう人、蛇口から出る水を見てパニックになる人。風呂に入るのも大変、水洗トイレにはいるには、先ずトイレットペーパーで水を見えないようにする人。水洗トイレをシャワー代わりに使う人、水掛祭りみたいな興奮状態になってしまう。
一度に「缶コーヒー」を十五本飲む人。「コーラ」二リットル毎日飲む人。
醤油やソースをジャブジャブかける人(十代で突然死した人は、一リットルの醤油を四日で消費していた)サラダ「油」をご飯にかけて食べる人

これは冗談でもなんでもないことである。実際この中で3分の1くらいは私も目撃したからだ。しかし呆れてしまうようでもあり、悲しくもしかし片倉さんの「しょうがねえな」という声が漏れてくるようではないか。もうここまで行くと笑うしかない。人間が「ユーモア」を持つのは「にもかかわらず」生きているからである。
また引用する。

「多動」もダメ。これはピンチに陥っている証拠の場合もある。
会社で上司に叱られ、ヘラヘラ笑いながら上司の顔につばをヒッカケテしまった人がいるが、これは上司をバカにしているのではなく、困り果てている姿、悩んでいる姿、疲れきっている姿、と理解しなければならない。しゃべれる人はあることないことしゃべりまくって、嘘つきなどと言われてしまうし、しゃべれない人は声をだしまくって、周囲の人の神経をズタズタに切り裂いてしまう。
こうした場合、整体に行って身体をほぐしてもらったり、身体や声をとめる練習を徹底的にやったり、悩みを解決してあげたり、ぐっすり眠れるようにしてあげて、多動を止めてあげなくてはいけない。

よく「落ち着き」がなくなると私たちもいうが、意外に喧嘩や暴力の生成が疲労や困惑によるものなのは普遍的なのではないだろうか。私もグループホームで夜勤のとき、なかなか寝静まらなくて起きてくる人がいた。なぜ寝静まらないかというと眠れないような事情があったからだが、ここでは伏せる。だんだん声を荒げる。こちらも深夜なのでなだめるうちに眠れぬ苦しみにイライラしてくる。「コラ!」といってしまった。すると壁を叩いたのである。他の入居者が眠れなくなることもある。
ただ私はその事情がなにか知っていたので不安を鎮めねばと思った。しかしこんこんと説き伏せるより「○○のことは大丈夫。心配ない。だから○○さんははよ寝なさい」といいながら背中をとんとんしたり、撫でたりしたのである。男同士なので、なんとなく不思議な感じだったが、どうもそれを30分くらいやったら段々声が小さくなり表情も落ち着き「はよねーよ」と自らいい、その後トイレに起きたものの寝てしまった。

もちろんこういうことが続くとこちらの体が持たないのだが、向こうだってもうへとへとなのであろう。わたしだって不安な夜は抱きしめてほしくなる。とはいえ、酒を飲んでぐちったり、カラオケに自ら行って死ぬほど歌うという選択肢や「いや相談があるんですよ」といえない分相当厄介である。複雑なこちらの論理は通じない。もちろんしかしこれは私もこの状態が理解しうる。自分もストレスに弱いからである。
しかしそれを自分なりに対処することを認知理論では「コーピング」というがそれがないまま曝されていると考えたほうがよい。極端に言うとノーガードでプロボクサーとボクシングする素人のようにダメージを受けていると想像してほしい。だから死ぬほどの叫びや混乱で訴えるのである。

他にも例がある。が最後のいくつかを挙げることにする。

物の位置が駄目な人は多い。
公演にすてられている空き缶が倒れていると、一々立てて歩く人。
スーパーに行き、並べられた商品が少しでもずれていると、すべて直す人。
ひどい人になると、家で父と母の位置を決めてしまい、そこに坐っていないとパニックになった幼児までいた。

特定の人がダメな場合は多い。力量のないプロが担当になったら、パニック、自傷、飛び出し、かたまり、何でも起こる。特定の人が視界に入ると、殴らずにはいられない、といった状況に陥ると、これはもう地獄である。

こうした意図と乖離した、反射的な、先行刺激に支配された行動を、「性格と解される」のは誠に苦しいことに違いない。自閉症と診断された瞬間から、脱コン(トロールの略)にならず、こうした状況やものに冷静に対応できる練習を徹底的に積まねばならない。

「練習を徹底的に」という点につまずく人は多いだろう。私もそうである。しかしその前の文章とつなげるなら、片倉さんがどういう理由でそういっているか理解可能ではある。私もこのような文章を正直涙なしには読めない。それは困ったことが多くて苦しかった、恐かったということもある。自分自身が。しかし、それだけではなく、生きることの「苦労と輝き」を取り戻す、あるいは身につけるということがやはり涙ぐましい努力だという点でも涙するのだ。自転車にのるのを始めて練習したとき転ばなかった人は少ない。顔に水をつけるときの恐怖を思い出したりもする。自分は子供らしい遊び、ビー玉やメンコが出来ず悔しかったことを覚えている。しかしそういう水準よりもっと深い穴から這い上がるようなものかもしれない。

一見「力量のないプロ」つまり支援者をバカにしているような文章にも見えるだろう。しかしちがうのだ。水泳のインストラクターが泳げない人だったらとか、ライフセーバーが平泳ぎで助けに来たらとか、針の刺し方も脈の取り方も知らない「看護師」に注射をされたらとかそういうことを想像してほしい。

もちろん支援というのは誰にでも開かれた職業である。実は変な「専門性」なんて振りかざすやつこそ迷惑千万だったりする。しかし医師や看護師とはちがう形でその人たちの「生命」を助ける人たちなのだ。そういう意味でプロフェッショナルなのかもしれない。

自分は謙虚さも、充分な体力もなくつぶれた人間だが、しかし謙虚になってそのもののありようを虚心に見るということがなければ、支援なんてないはずだ。逆に言えば、虚心に現実をみつめる力、それがその人にあるなら、その人は国家資格はなんらもたなくても、すぐにでも必要な知識を見につけうると思える。人に教わり、人と連繋することができる。この仕事ほど連繋が必要な仕事もない。自分の頭の中も外も有機的につなげうる力だ。しかし私もそうかもしれないが、もちろん主張することは主張していい。しかし、己惚れがありすぎると痛い目にあうことは警告したい。自分が何より己惚ればかりで「力」の足りない人間だったからだろう。(しかしそれと共に非常に矛盾をかかえた施設だったこともあるだろう)
使いつぶされるのは、この社会の非人道性であるとともに、それとどう向き合うかというその自分のあり方まで考えさせられる事態だった。自分にとっては。そこに答えはない。ただ、精神疾患が増悪したことで事実上できなくなっていったことは否めない。

よく考えれば、彼ら発達障害者も私たちがそうであるように、親や周囲の人が育ててきたわけだ。親や養育者ははじめは特別な知識をもたぬまま育ててきたのだ。もちろん様々な親や養育者がおり、彼らを心から理解して育ててきたものばかりではないようだ。
ただ、そのように彼らのことを思う人、思わない人、偏見を持つ人の中で彼らは育ってきた。その事実に立つなら、この意味では専門家が独占して療育し介護するということばかりではない。(この辺りは働いていた頃から、そして社会福祉士の免許はとったが、精神科デイケアに通所する現在でも気になっている)
つまりアマチュア性がまずあるということだ。

専門家集団が参加して支援の体制を作る場合TEACCHプログラムや英国の自閉症協会のような組織的な療育や支援の取り組みができたわけである。

しかし、それでも片倉さんの文章を読んで、僕は自分の中の何かが降りていくのを感じた。それはもうがんばらなくてもいいんだという不思議な脱力と、もしかしたら何かが出来るならそれはうれしい、介護でなくても金がどうとかではなくてもとかも思ったりした。そんな謙虚じゃないけどさ。

人間の様々な複雑な、しかしその健気なあり方。それを感じようとする広い眼。非常に様々な困難な仕事ではあるがそれでも、チャレンジングな仕事であることはまちがいない。ヤル気があって、その上に虚心に現実を見る目を見につける努力があるなら、挑戦する甲斐のある仕事だ。やめてしまった(もう辞めて精神疾患になって7年も経つのだ)私がいっても説得力がないだろうけど。しかし、相当な困難があるのもまた事実である。そういいたかった。