細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

火星の人類学者を読んでいて

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

     *サックスの姿勢

久しぶりに「自閉症」の人たちと関わった経験を思い出すことになった。オリバー・サックスは医師なので、観察者の姿勢を崩さないものの、誠実に彼らのあり方について疑問や驚きを率直に書いている。そしてなぜ自分が彼らの理解に躓くのかかんがえようとしている。
科学は仮説を立て、その仮説が現実に照らし合わせ、有効で理にかなったものかを「検証」する作業をする。そうでないといかなる恣意的な一人合点な思い込みで、他の存在、目の前の人を振り回す、操作することになる。

しかしただ思いつきを実証しつづけるだけでは相手を愚弄する態度になりかねない。サックス氏の記述が少し前のものでありながら、アクチュアリティ(今目の前にある感じ)を失わないのは、その背後に医師としての病態への関心と共に、人間の存在の不思議を知りたいという姿勢があることだ。
なぜ知りたいかと突き詰めるならば、彼が科学者として、そして一人の人間として、「自閉症」の人は寂しくないのかなとか、どこに苦労があるのかな、どんなことが楽しいのかな?と感じているからである。つまり、この人とどうしたら「友達」になったりして、その人と喜びを共有できるのかなと考えるからだと思う。


     *独断と偏見による思い出話


私は1999年に非正規としてグループホームの介助員となったとき、ずぶの素人であり、自閉症の人とのつきあいなんて何もなかった。しかし自閉症の人の問題行動に驚きながらも、それほど「不可解」には思えなかったという感覚があった。この感覚は様々なタイプの、つまり自閉症以外のメンバーともつきあう中でどんどん崩れていくものの、自閉症の人への「不可解さ」というのはずっとあまりなかった。あるとしたら、彼らの常同行動の中でも、非常に難しい自傷あるいは他害といった破壊行為には疲弊した。そうならないように注意してもこちらは人間であるからついうっかりということがある。自分はそもそも彼らの監視者ではない。
また、彼らの生活を見る中で、多くの機会を提供できなかった自分へのもどかしさもあったが、ある程度おちついた生活を提供したのではないかとはあくまで自己評価であるがそう思う。しかし根本的な疑問として、同じく寝食をともにするケアワーカーとしてというより、単にそばにいる人として、僕は彼らがいいしれぬ不安や退屈さにさいなまれて辛くないだろうかと感じていた。

彼らには非常にユニークな音や、視覚だけでなく些細なレベルでも不思議な感覚があった。それが「認知障害」とどう関連しているのか判断が難しい。毎日日記や絵(観覧車など)を書いているひとが、いつも空に字を書くことがある。僕は疑問に思い、聴いてみた。「何て書いてるの?」その人は「100です」と高い目の声で言うのだ。??「100って何?」と聴くと、「100、100書きます」というのだ。「100って何?」とまた聴くと「1、10、100、100」というのだ。まあ説明していただいているのだが、100が何の100だったかわからなかったが、自分もカレンダーの数字を意味なく足す癖があったのでまずまずああなるほどとは思うのだった。

そういうのは笑の壷と似ていて、あまり意味性を伴わない。他にもちょっと面白いことはいくつもあったが、それは置く。

しかし、そうやって一緒にぼんやりしながらのんびりしている分にはまあいいのだがいろいろなことが起こる。それは生活が微細な変化の連続だからだ。そのような変化が彼らを意想外に苦しめる。恐らく身体や外界の様々な変化にうまい対処法が見つからず、自分の今までのやり方を絶望的に貫きとおすところに彼らの苦しみがあるのではないかと思う。キルケゴールの言葉を借りれば「絶望的に自己自身であろうとする」感じだ。胸が痛くなるし、正直うんざりするのだが、その人の生活の質を考えるなら少しでも、混乱や自己破壊=行動障害を少なくした対処法を身につけてほしいとは思った。

目まぐるしく理解不能な変化が襲い掛かりそれに対して防御姿勢をとるだけでは、人生を味わい、学習することは不可能になる。自分もそうなので耳が痛い話である。その不器用さが僕の想像の範囲を超えたものなのだろうと思っていた。だから、健常者との違いという表現をいやがる人は多いと思うが、しかし苦労の質的な違いには充分気をつけないと、「違いという表現をいやがる」ことは逆に差別的なのだ。なぜなら彼らの生活や存在のそもそものありようがみえなくなるからだ。

脱線したが、彼らのその人なりの「よりよい生活」って何だろうなと一緒に感じることが大事だ。これも責任が重く大変な話だから、自分はその重みに耐え得なかったのかもしれないが。

一番ソフトな例としては、醤油をおかずになみなみと注ぐということがある。これは彼の味覚や健康を破壊してしまう。いたましいので、醤油差しをもってかけようとする時点で、「ストップ」というくらいがちょうどよい。それでもけっこうかかっている。「もっと」と彼は言う。しかし「もうおしまい。ちゃんと醤油かかっているから大丈夫」とこたえる。魚に少し醤油をかけることはする。しかし醤油に泳がせたりしてはいけない。「ちょっとだけ」とかいってみても、「ちょっと」というのは彼らにとって曖昧すぎる。しかし常に計量スプーンで何グラムなどといっていたら食事を楽しむということがなくなる。
残酷だがこちらの指示にしたがってもらわないと、醤油の海ができあがる。そうすると、それが刺身であろうが冷奴であろうが醤油の味しかしない。これではあまりに悲しい。だから心を鬼にして、指示してみる。ホントは指示がなくても自分でうまくできるようになったらいいなと思ったが、そこまでは至らなかった。様々なレベルでの生活の見直し、家族や様々な人の協力がないとできないこともあるからだ。醤油の問題だけでなく、そこにはその人の生活適応と持てる力の関係の話につながるからだ。

液体の量的感覚というのは、意外にコントロールが難しい。自分が病気がひどいときによく味つけが濃すぎたことがある。中枢神経系の働きにむずかしさを感じるときに、よく起こることなのかもしれない。

こういう作業は体力と根気がいる。(この例だと、楽なように思われるかもしれないが、様々な形をとる。缶をかみちぎる、通過する列車の間近まで接近していく、割れ物を破壊する、自分の頭を叩くなど。しかしこだわりやパニック的な行動をメカニズムの理解や探求なしに、行なっても何の意味もない。無闇に「常同行動」を止めようとする介助者がいる。もちろん危険な行為や苦しみの多い行為があるので止めるに如くはない。しかしそれが何のためにどういう理由で行われるかという視点がなければ何の意味もない。そこに視点をおかない限り介助者の恣意ととられかねないケースがある。なにより本人の生活の質の問題としてしっかり捉える必要がある。)
だからといって本当は現場の努力や根性だけに頼っては、支援者は倒れるか心をどこかで麻痺させねばならなくなるというのが今の僕の見解である。しかしそうでもないあり方もあるのかもしれない。ただ、愛情や友情だけでは乗り越えられない壁がこの世界にはたくさんある。仕組みや健康、自然的要件はこちら側の心構えを簡単に凌駕する。


キリがないのでこれくらいに。思い出話でした。
その頃読んでいた本に

自閉症なんか怖くない―低機能広汎性発達障害者とのつきあい

自閉症なんか怖くない―低機能広汎性発達障害者とのつきあい