細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

デイケアについて考える

デイケアで最近調子を崩した人がいたが、だいぶおちついてきたので安心した。医療スタッフや職員さんによる尽力もあったことかと思うが、それと同時に、調子をくずしてから送り迎えに来ているご家族や様々な人の力がはたらいたのだと思う。
もちろんデイでも他のメンバーだっていろいろ心遣いをしていたんだなと他の人の様子や話を聴いて思った。
こういう形で目に見えない地味な力が私たちをどこかで支えている。同時にそれは崩れやすく、また今がベストな在り方かどうかも本当のところはわからない。場所とか仕組みというのは、安心してのっかかっている内は意味不明なのだが、足元がゆらいでいる経験から類推するなら、それはいい悪いは置いとくと様々な人やものから成り立っていることが解る。


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私は社会福祉士の有資格者となった。しかし様々な意味で体力に自信がもてない。また、今の社会が人を「使いつぶす」社会なのだとも肌身で実感している。
もちろんいい面もある。しかし人と人の「間」で生きること、その在り方を日々かんがえたりすることは憂鬱で、人からパワーを奪うものともなっている。

もちろんそれを維持したり過ごしやすいようにしていく人がいなければならず、自分もその位置に立つある意味での「資格?」を手に入れたのかもしれない。

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あるときデイケアで、今パートタイムで働いていて、休暇の日に時折訪れる人と話した。
私「職員さんも就労支援のようなことをいっている。自分も資格まではなんとかとった。しかし改めて考える中でやはり恐い。外の世界にほうりだされてどのように生きていけばいいのかなと思う。Aさん(相手)は今はどういう感じでデイケアに来ているのん?」
Aさん「僕は仕事が休みのとき、映画とか見に行くのでなければ、あまり友達がいないのでデイケアに来ますよ。仕事ばっかしではうっとうしいし。でもあんまりデイケアに来すぎても休みがなくなりしんどいし、かといって家で鬱々としていてもしんどい。だからそういう感じでやってる」
私「そっか。俺も一人で考えすぎるとろくなことないし、家では家事やったりするけど、こっち来たら運動とかできるしな。でも、デイケアって卒業というかでていくタイミングというか…」
Aさん「そら俺は仕事するんやから、もうデイケアとは一線を隔するといった人もいるし。個人的な気持ちとかで来るのいやになった人も、来たいって人もいるし。なんとなく来なくなった人もいるし。調子のいいときは仕事忙しくなってこなくなって、しんどなったら戻ってくる場合もありますし。それぞれやと思うんですけどね。」
私「そしたら"これや!"みたいなのはないのかな」
Aさん「そうですね」


ああ、そうだプロセスなんだと思った。以下のニュースを読んで、そやねんけど、「社会的入院」はなんか少し自分の実感とすれちがう面もあると思ったのだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090604-00000013-cbn-soci

もちろんそういうふうにして、とりあえず入っとく場所みたいになってしまっている面もたくさんあるかとも思う。そこには差別もあろう。
ただ、実社会や実生活において破綻した人が実際たくさん地域でくらしていて、結婚している人も年老いた人も働いている人も色んな人がいる。しかし脛に傷持っているみたいな心持で生きている面はある。しかしそこでデイケアに行ったり、行かなくなったり色んな考えで参加したりしなかったり、果ては野垂れ死にしている人もいるかと思うのである。大阪にはけっこうホームレスもいるのです。いったい全体そういう認識まで含めて「社会的入院」といっているかというと、どうもそういう「俺認識」とはかなりちがうよなと思うのである。どっちが正しいかはわからんが。


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全て世の中が悪いとは思わない。しかし事実上、「君は働けない」という状態を通過して、あるいは自分としてうまくいかなかった記憶をもっていく人が再び過剰な負荷がかかった場合沈むことは容易に想像できないか。
大事なのは「うまくいかなかった自分」とは何か。あるいは「うまくいかない/うまくいく」とはどういうことかこれを深めていくことなのかなと思っている。自分なりの達成みたいなものをどこに置いているのか。正直もうしんどい思いは最小限にしたい、あまり力を奪われたくないからそっとしといてほしい自分もいる。しかしそれでよいのかどうか。そこで立ち止まっている人は自分だけではないのではないかと感じている。自分はそこで制度的に福祉を使うことで踏みとどまっている。そこが自分の場所として適当かというとこれも微妙である。正直、ここから羽ばたくには、あと数段のプロセスがあると思う。そこから出て行って討ち死にする人もいる。生き延びる人もいる。稀にうまくいってNHKあたりの福祉番組で出れる人もいないではない。しかしそれはレアケースであり多くは「ただの人」として、しかし「たったひとつの」人生を生きているはずなのだ。ただの人として、それぞれ自分の身体と心と環境と他者をつなぎ、あるいは切断したりしながら仕事したりしていなかったりしている。

しかし「社会的入院」という言葉をもう一度思い出すなら、そこで例えばデイケアで「滞留」している人が多いという意味でなら解る。しかしどこへ行けというのか。やはり「地域」か。「地域」とは一体何なのだ?「地方主権」とか「地域」とかいうと聞えはいい。しかし、実際暮らしいいのか、チャレンジする場所として魅力があるのか。地域や地方を構成している原点はやはり人と環境だ。「人と環境」が、痩せていないか。それは精神病者と同じように「力を損なっている」のではないか。


また私自身どうやってそこで健康を維持できるのか手さぐり状態である。考えすぎだといわれてもチャレンジせよといわれても、自分は所得は少ないけどなんとか人と生活し、生きていこうとしている。この現状を互いが肯定した上で先に行く話はできないだろうか。もちろん様々に上に書いた人の他にも「共に考える」人はいるのだけど。しかし自分がソーシャルワークとかいうとおおげさだけど、やっぱり健康のありがたみは病気にならんとわからんので、健康は「大事にしたい」自分も躁状態やちょっと錯乱したことがあるが、あの体験にも意味はあるが、しかし自分なりに元気な状態で人生を「味わいたい」希望があるよ。そこを社会との関わりでどういえるか。

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持てる力について正しい評価ができなければ、これからの自分は想像できないと思う。銭をもっていないのに払うことは出来ない。どこへいくかは、そこに何のために行くか何にのっていくか、予算はくらいは考えとかないかん。いくら先へ先へ行こうとしても、どの地点から先に行くかを考えなくていかん。そうしないと「迷子」になる。ちょっと不安に思いすぎ?でも不安強いねん。