細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

帝国と「愛」(下のエントリにくっついていましたが加筆して独立のエントリにしました。)

なぜかマイケルやスティービー・ワンダーの歌を聴いていて、今の状況と絡むものを感じもした。ウィグル人の抗議に対する漢民族や、中国政府の暴力あるいは日本での地方自治という名の知事のむき出しの覇権争いと政府与党のその利用を見ると、露骨な植民地主義とか帝国主義みたいなものを感じる。それは自治を破壊し、だれが乗っ取り覇権を拡げるかということしか見えない。しかしそのようには報道されない。柄谷が現在は19世紀末の帝国主義の時期と似ているといったのは彼の説明には違和は残れど、今の中国は「清朝と変わらない」というところなど興味深い仮説だとも思えてきた。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090630dde012010078000c.html


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マイケルやスティービー・ワンダーのうた、あるいはマーヴィン・ゲイもそうだと思うが、実際にアメリカという巨大な連邦国家の中の黒人と白人の巨大な社会的な分割と階層化の果ての中で、つまり人と人の間の不公正な関係を培地として、育ち、その絶望の中で「愛」を歌おうとしていたように思える。そこには試行錯誤の中での美しさがあるようにさえ感じる。そのときにしか歌えなかったのだがそのような絶望や愛はどこかで人間のあるいは社会の本性とクリティカルな関わりをもつために今の時代に生きる私にも感じるものがあるのだと思う。実は単細胞的な理想主義から遠いものなのだ。闘いの中での歌なのである。


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昨日、青山繁晴がニュースでズバリにおいて、「胡錦濤国家主席がサミットを欠席して緊急帰国したのは、単に世界の目を気にしているからではない。胡錦濤の眼にはチベットやウィグルでの動きは、ちょうど20年前の「ベルリンの壁崩壊」以降の果てしない国家の分裂や、国境線の引きなおしといったものに見えているのではないか」というようなことをいっていた。

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柄谷と、青山で政治的立場は相当違うし、議論自体のベクトルも正反対だ。なにしろ柄谷は19世紀末、青山は今から20年前のことである。

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柄谷行人の話を自分なりに広げてみる。
19世紀末、植民地拡張がある程度まで行くと、今度は帝国同士がその範囲を広げるせめぎあいが始まる。そこには国際法的な調停の努力の一方で、領土拡張にしのぎを削りあうことが始まった。アメリカの生成はヨーロッパのそのような争いとは異なるように思える。しかしトクヴィルや、アレントが評価する地方自治の活性化とともにもちろん先住民族の駆逐も行なわれた。つまり、実は帝国主義はつねに領土を拡張させる力と、当然そこを追われる人たちとの攻防を引き起こす。同一化をせまるわけである。帝国が広がるほど、領土の保全に大きな不安やコストがつきまとい、先住民族への差別や憎悪も強化される。そして独立の火も育まれる。インドや中国は後に独立闘争や革命を起こすことになる。これは不可分一体の現象なのだと思う。


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一方青山のいう「ベルリンの壁」崩壊以降、かつての強力な社会主義統治の力がなくなると、解放だけでなく様々な諸勢力の暗躍や当然至極な自治の主張などがあいまって、混乱し始める。資本主義がすべて悪いとはいいがたいように思う。そのような考え方自体原理的な硬直を起こしやすい。社会に様々な要素が入ったほうがよい。しかしそこでは善も悪もすべて入るはずである。当事国や、なにより大国にそのような妥当な認識があったかどうか。これを鎮圧しようとするのはロシア、アメリカやヨーロッパとその国連軍といったやはり、帝国的な勢力なのである。民族同士がパニックになったという理解よりも、社会における不確定要素の増大を暴力以外の仕方で抑えられなかった部分が大きいのではないかと思う。ホッブスのいう自然状態は互いの私的利害による際限のない闘争の段階で、だからそれぞれ互いの身体や財産を守るために初期の国家が創設される。しかし、「際限のない闘争」がなぜ起こるのかといえば、自分が何者であるかがわからなくなり途方にくれ道を失うときだ。そのようなとき人は容易に「他人のことなど知らない」ということになってしまいやすい。そして、そこに様々なイデオロギー(政治的に正しい民主主義を含む)や武器が様々な商売人や政治家の手で持ち込まれてしまっていくのである。東欧社会主義解体以降ユーゴやコソボで起こった虐殺や民族同士の争いは、そのようなむき出しの不安定な現実の中で他所からの様々な現代型の武器や原理主義や粗雑な普遍化が導入されてしまった。それ以外に知恵が本当になかったのかどうか。

どうして自分たちで生きるという当然至極に思えることが、自らの手であるいはそれよりもっと大きな国や勢力によって、違う形に総括されてしまうのか。


おそらくこれが前哨になり、アメリカも相当イラクを過剰に警戒しはじめて、ついに地上から掃討してしまった。これは同時併行的な現象だ。

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ここには非常に難しい秩序の問題がある。何を目指しどのようなプロセスをもって「われわれ」であるかを定めること自体の困難がある。独裁を倒し、民主主義を実現するといいながら、実はそこに住む人を自爆テロの起こる無法状態に陥れては、本末転倒である。

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しかしそんな「われわれ」というのは定めなくていいといえるのは、私たち日本人が強力な「われわれ」意識の中にある集団だからだろう。19世紀末や20世紀初頭も「われわれ」意識はそんなに確かなものではなかったような気がする。強力な「われわれ」による束ねが必要とされてしまうのは、皮肉なことに「われわれ」について意識して考えなければならないほど、なんとなくの共存が難しいと感じ(あくまで「感じ」)られるときである。(あくまで実際にそうなっているかはおうおうにして関係ない)現在の日本は、「われわれ」をあえて言語化しなければならないと思っている人が増えているように思う。

そもそも自分たちが「社会をなぜ形成しているか」についての一定の問い直しはあまりないままに。ただ逆説的にいえば、このような時期にしか、自分たちがなぜ集まって公共的な政府や社会を持つかあらためて考え直すことはできない。社会保障がそのような問題意識のあらわれだと私は思うのだが。

それをする手前の「つぶすかつぶされるか」という領土やアイデンティティや生存の闘争や混乱が、東アジア中央アジアでも隠し切れず明らかになりつつある。東欧社会主義解体以降ユーゴやコソボで起こった虐殺や民族同士の争い、あるいは20世紀初頭で言うと辛亥革命チャンドラ・ボースガンジーのもとでいたが袂を分かった)のように植民地支配や帝政と戦う血で血を洗う独立(しかし辛亥革命でもチベットやウィグルははずされていたらしい)への闘いがあった。
それが東アジア、ユーラシア大陸中央部で起こりはじめているという認識では近い。血を流すことでしか希望はあらわれないのだろうか?本当に?そのように間やすき間や境界領域を排除した2者択一しかないのだろうか。

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そうすると北朝鮮も、そのような中国・ロシア・アメリカ・日本などが戦後社会を作るためにに積み残した歪みや矛盾そのものに見えてくる。
それを冷戦や冷戦以降は大国の力で北朝鮮を抑えたり膨張させたりしていたのだが、そんなにその国を出しに極東アジア秩序を保つことはできなくなっているのが正確な現状ではないだろうか。

              
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そういうとき帝国主義や圧制やこれまでの常識と戦った黒人や、日本の思想家や、インドや南米、アフリカの運動家は、ガンジーは、どう事態を認識していたのか。そこに参考になるものがあるように思う。自分は幸徳秋水宮武外骨あたりとガンジーが気になっている。リアルポリティクスと非暴力抵抗の結合というか。。

マイケルやワンダーの曲を聴きながら、その歌に「闘いや怒り」と「愛」の両極を見るようなのだ、と感じたりもした。彼らには争いだけではどうにもならないという認識があったように思うから。そこからさらに争いを鎮めるのは、自分たちが苦や愛を歌うことを通じてだと彼らは思っているように思う。祈るとはそういうことだ。少し脱線しました。。