細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

剱岳と国

先週土曜日は、「剱岳―点の記」http://www.tsurugidake.jp/を見に行った。観客には中高年層が多かった。だけど、剱岳の映像も素敵だったし、陸軍測量部の浅野忠信や、かれを案内する長次郎(香川照之)や村人の様子もよかった。脇もしっかりしていたし、とくに長次郎の息子は素敵だった。おしむらくは、「山岳会」の描写が貧弱すぎる。かれらはヨーロッパの新しい登山道具をもっている。それがなにか軽佻浮薄なものとして描かれすぎのように思った。山岳会の人に「遊びで山に登るのか」と、浅野が聞く。山岳会リーダー役の仲村トオルは「ちがいますよ」と答える。その後のシーンで再び浅野はアルピニスト同士として、「なぜ山に登るか」と訊く。しかし仲村は応えられない。別に答えをいわなくてもいいわけだが、遊びで山に登ってはなぜいけないのか。昔ニーチェが「大人の真剣さとは子供のころ遊びに必死になった頃の懸命さを取り戻すことだ」といっていた。
もちろん日本の市民社会は日露戦争の頃、どれくらい自由だったか不明なのだが、この映画は山岳会という趣味を持った大人をきちんと描けず、だからといって国家の威信をかけた測量事業を手放しでもちあげることはできないというジレンマをうまく解決できていなかった。しかし日本の近代はそういうものだったのか。今もそうなのか?何となく違う気がする。それ以外はすごくすばらしかった。いい映画でした。

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山岳会という趣味を持った大人をきちんと描けず、だからといって国家の威信をかけた測量事業を手放しでもちあげることはできないというジレンマをうまく解決できていなかった。しかし日本の近代はそういうものだったのか。今もそうなのか?何となく違う気がする。

と僕が書いたのは最近鈴木邦男の本を読んでて思ったことにもつながる。
愛国と米国―日本人はアメリカを愛せるのか (平凡社新書)

戦前に欧化思想を嫌う思想があり、それは東條政権下の内閣情報局奥村喜和男もそうだった。それに対して鈴木邦男は右翼の立場から批判している。

さらに奥村は、アメリカとの「思想謀略」といかに戦うか。そのことを強調する。内閣情報局は、大本営との緊密な連絡と日本放送協会の献身的な協力のもとに、対外的な大思想戦を展開している。(略)米英の放つ「邪悪なデマ放送」を片っ端から粉砕すると共に、この戦争が米英の鉄鎖からアジアを解放し、八紘一宇の東亜の新秩序を樹立する崇高な聖戦である旨を反復説明している、という。
では、「敵」はどんな「思想謀略」をしかけてきているのか。ここを読んで、アッと思わず声を上げてしまった。なぜなら「3S政策」が出ていたからだ。これは実は戦前から言われていたのか。

ここでいう3S政策とはスポーツ、セックス、スクリーンの3っつのSである。内閣情報局の奥村はこういう。「その結果、セックスのエスは、カフェーを流行させて多い庭が風紀を乱した。スクリーンのエスは、映画によって「うら若い乙女や青年の心を毒し」云々と。
よく今でも日本は堕落した云々を言う人は「戦後アメリカ文化が入ってきて快楽主義的な資本主義によってダメになった」みたいなことをいう。しかし鈴木も言うようにこれは戦前から「欧化的な体制は大和魂を柔弱化させる」式の考えがあったのであるらしい。
で、普通右翼の常識的文法であるはずのこれを鈴木は戦後の右翼として批判する。

では(太平洋戦争を;石川註)「3S政策」によって、アメリカは日本に勝ったのか。そんな事はない。映画やスポーツは反対なら、国内に入れなければいい。セックスだってアメリカの金髪美女が日本に送り込まれて、日本の男を誘惑したわけではない。多分奥村たちの「妄想」だろう。全ての責任を「敵」に求める発想だ。日本精神をなくしたのも、日本男子が軟弱になったのも、英米文化のせいだ。そこに責任転嫁したいのだ。
しかし疑問だ。上から「3S政策に気をつけろ」といわれても、「わかりました」「その通りですね」と思った国民がいたのだろうか。「何を言っているのか」と思った人が多いのではないか。七○年ほど前のことなのにその当時の人々の感じ方をもう僕らは類推できない。どう思ったのか。それに、この3つは、人間誰もが好きなものだ。

いくつか違和感のある表現もあるが、骨格を読む。僕は鈴木がおそらく「自治」の観点から、自分たちの敗北の理由を人のせいにすることにより、自分たちがなぜ奇妙な戦争に突入したかを考えさせなくしてしまうことを問題に思っているのだと思う。自分や自分たちがなすこと、なそうとすることの意味を考えることができないことが、情けないと言いたいのだと思う。
しかも、それを人間が生きることそのものの否定の上に置くことが許せないのだと思う。清貧だとか、大和魂だとかいうものにあまり信用がおけないのは、ただの生、人間のささやかな楽しみ、おおげさにいえばしかし基本的な自由や人権を破壊しすべてを薪にして戦争の炎にしようとする発想からだと思う。

そういう人の不幸せや我慢の上に、制度をつくるという発想こそがある部分で戦前戦後連続しているとも思える。鈴木はおそらく日本人が自由に暮らさない限り日本の国としての発展や永続性はないと感じているのではないか。そういう意味での「愛国」なのだ。
この不景気の上に、人心に我慢を強いる政策ばかり立てれば、その我慢を正統化しようとする言説がまた出てくるかもしれない。

僕はとりたてて「愛国」だったりしないのだが、というかこの国は変な国だなとよく違和感を感じるのだが、自分の親や、自分の中にも「ついつい辛抱する」精神がしみついているのを感じるときがある。しかし、金がなかったり、人が死んだりすると、身も蓋もなくしんどいので、健康とお金はさすがに最低限はないと困る。その上に自分の友や家族が生きていければ。だからそういうものを破壊する政策はよくないと思うのである。居場所について我々はよく考えないといけない。

いきなり剱岳の話しに戻るが、好きで山に登り、そこから様々なことを学べばいいではないか。自分の人生をどう生きるかいつも我々は好きに選べないという。しかし実際そうだとしても、それを悔いなくやっているといいたいときもあるではないか。
そこを大事にして、しかしお互いに好きなものもいやなものも共存するにはどうしたらいいか。そのために互いが気をつけたり、話し合ったりするイシューは何か。そういうふうに考えたいのである。