細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

表われて表したもの―マイケルのことを思った

    1.小倉さんとマイケル


今日は昨晩頭が重くつかれていると感じたので、ゆっくりしようと思いました。それで朝のんびりパソコン開くと、2ちゃんねるが大騒ぎになってる、かのマイケル・ジャクソンが亡くなったというではないですか。
朝のテレビでは、小倉さんとデーブ・スペクターが沈痛な面持ちでした。いくら彼らがアメリカスター大好きとはいえ、相当つらそうでした。

で、mixiで日記書いたりして、マイケルの動画をチェックしました。
不覚にも心動いた。

僕の無意識のある部分にマイケルの存在があるのに気付きました。ファンとかそういうのではないですが。かといって、彼がアイコンであるとか、またある種の偶像を自分でなぞったとかそういう感じでもないのでした。きっとそのときの年令とかもあるでしょう。それと僕が単純すぎるというのもあるかも知れん。

なぜか一日中気になってしかし映像に感動していた。胸騒ぎがしていた。
特にscreamという曲これは心が痛かった。当時もそう思いましたが。妹のジャネットと仲良さそうなんで心和む。だけど心はまさにscream(苦しみで叫んで)しているんです。顔もだいぶ痛々しい。こうやって思いを吐き出すようことがマイケルは意外と多い。でもすごく洗練された映像。
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動画を見ているうちに気付いたのは、この人は身体と心に相当問題、病理を抱えているのに、とにかく音と踊りがまさしくその人そのものの能力をフルに実現しているということです。隙間のないほど、意志と肉体の動きが連動している感を与える。それがスタイルにまでなっている。自由であり同時に桎梏(宿命)であるようなその踊り。意志=義務のような。整形や、ピーターパンシンドローム、そして途方もない贅沢と数え上げればキリがない現代の病理の代表のようなのに、彼の動きはすごい。心とからだがあまりにも一致しているようである。剣の達人のように。これはいったいどういうことなんだろうか?みなさんもそう思いませんか?俺だけかな?(カレン・カーペンターにもそれを感じます)

   
    2.ジョーダンとマイケル


当時NBAのスターだったマイケル・ジョーダンと出ている映像があります。JAMという曲です。
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ここで、楽しそうに戯れるジョーダンと、マイケルジャクソンがいる。マイケル・ジャクソンはここで、ダンスをかっこよく決めながら、アニメのように遠くからシュートを決める一方、普通にジョーダンに遊んでもらっている。けしてバスケの上手さ*1を演出していないシーンがあるんです。子供のように遊ぶ。僕は体育が下手だったからこういうシーンがあるとほっとします。と共にうらやましい。

ある意味では、身体を動かすということが完全に板についている。(晩年は身体は悪かったでしょう)遊びとしても、パフォーマンスとしても。こういう完全な身体表現の人はふつう回りにいないわけで、ジョーダンもそうです。ですからマイケル・ジャクソンの踊りはある種、面白くて、僕らが子供の頃みんなムーンウォークのまねしたのかな。キン肉マンのキャラや、ドラゴンボールサイヤ人が実際存在しているようなもんで、だから僕らにとっては夢のように見える。あるいはリアルを越えたシュミラークルというかマンガ的にみえる。

けれども、踊るマイケルの心は怒りや絶望や自己愛や、いろんな奇怪なものを抱えながらそれでも、そこからの解放を夢見ていたのではないかと思います。

でも見ている僕から見たら、マイケルの音楽や踊りは単純にドキドキする。これなんだろうかと思う。たのしい。スリリング。昔badのPVを朝地方の番組でやってた。その朝は台風が接近していた。暴風警報が出れば中学校が休みで、あちこち警報出てないかチャンネル変えていました。そのときにマイケルが踊っている。すごい。なんかいい。外は曇り。二階のテレビでマイケルが踊る。なんか休みになったらいいのになと思った。でも警報はでない。注意報レベルで台風が通過している。マイケルのPVも終わり10時頃登校したわけです。

マイケルはある時期人によってはネタでしたし、僕も整形とかなんだかなと嘲笑してた。しかし気付いてみると、なんだ当たり前のことをマイケルはやりたくて、しかし物心ついたら失った、奪われたそういう記憶や原風景があって。踊っても踊ってもその罠から逃れられなかった。それどころか踊り歌うほどその悲劇はどんどんかさんだ。でも人並みの幸せの瞬間もあったろう。

彼は自分の苦しみを、そこからあふれる鋭いスピンを最大限ポップなものとして提示するしかなかった。そうすることで皆が幸せになるのが見えた。そういう表現者の悲しみが見えてくるのでした。きっとギリシア悲劇とかもそういうものなのかもしれないと思う。そうして全力で愛し愛されようとしたのだから。

             
      3.マイケルと「制度としてのからだ」


竹内敏晴という演劇の人で、身体についてたくさんワークショップをやっている人がこういっています。彼はメルロ=ポンティの深い読み手でもあります。これはもっぱら子供と先生の関係に言及してます。

ほんとうに深い集中の中でからだが動き、思いがけぬ自分がいきいきと動き、それを仲間と共有しあう、という怖れと喜びに満ちた自由の体験を一度も味わったことがないものに、その天真の自分を阻んでいる因子に気づくことができるわけがない。ところが生徒たちのからだは、無意識の動きにおいて、そこにあり、常にそれを求めているのです。真剣に子どもたちと取り組んでいる教員たちのからだがもうコワレそうになっているのをわたしはハラハラみています。それは周囲との闘いや実務の忙しさによるばかりではない。子どもたちのからだと魂へ、みずからを投げ入れるエネルギー、その激しい消耗から蘇ってくるいのちを支えるのは、ただ子どもたちのひたむきな眼であり、湧き上がるような笑顔であり、魂の深淵をのぞかせる舌足らずのことばである。それをはばむ敵は外にもみずからの内にも、子どもたちのからだにさえある。ただ、もう一歩、もう一歩と、祈りたいだけです。
引用:教師のためのからだとことば考 (ちくま学芸文庫)

竹内さんは様々なしごとのひと相手にワークショップするので、そうすると教員が音を上げて去ることが多いと慨嘆した後、「教員は他の生活者よりはるかに厳しい」世間の目にさらされているから防衛的にならざるをえない。自然、リスク回避的になる。それは仕方ないけれど、それは官僚と同じように「制度としてのからだ」という制服というかよろいを着ているのではないかと推測します。

僕は先生だってもっといろんな人がいると思います。しかし先の文章に自分たちが魂へと通じる道を「はばむ敵」は「外にもみずからの内にも」あるといっている。それはもちろん先生にも生徒にも世間にも。(これは今や先生や生徒のみに限定できない。みんなそれでクタクタでグダグダです。だからといって本音で話せというのはなんかなあと思う。素朴に表しだすしかない。)
マイケルはそのような事態をもっとも先鋭にあらわしたようにも思えます。身体の叫びを聞け。いや俺の叫びを聞け!というように。自分で自覚的に「表した」のか彼の体の中から勝手に「表われた」のかわからないけど。
僕のからだの中にも檻というか枠組みというかそういう存在を拘束する何かがあるんじゃないかと思います。自分の中に入り自分の一部となった「制度」。それにはよい部分と苦しい部分がある。それはつくづく思うのです。だから実際しんどいんじゃないかと。現代に適応するのはマイケルは極端としても皆あのように自分を改造して、適応しちゃっている部分があるんではないか。あるいは自分をある枠組みから出さないようにして守っているんではないか。だから自分にも他人にもこういいたくなってしまう時がある。

だからそこからただ、もう一歩、もう一歩と

*1:関係あると思うんですがオバマ大統領はバスケットが逆にうまいんですね。選手でした。http://www.youtube.com/watch?v=mimaNFEbg6Uアメリカにとって、バスケは特別な位置にある。しかもオバマは政治家として黒人も白人もあらゆる人種が平等だという主張をともなってあらわれた。マイケルがBlack or Whiteを歌ったりキング牧師以来、ソウルミュージシャンが様々に歌った愛がある偏った形にしても政治的に実現してしまった。しかし本当にそうなのかということはある。しかしオバマが政策以前にすらりとした体型や見事な弁舌、黒人という表象で大統領まで上ったのは、マイケルと符合するようにも思える。邪推ですが。”we are the world"も歌ってますし。http://www.youtube.com/watch?v=ZI9OYMRwN1Q