細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

抒情の

今朝は午前中は晴れだったが今は雲が空を覆っている。
早くシーツを洗濯しといてよかった。

抒情の前線―戦後詩十人の本質 (1970年) (新潮選書)
昼は清岡卓行「抒情の前線」を読む。
戦後詩論。吉野弘のとこと、黒田三郎のとこを読む。こういう詩風がどこへいったんだろうかとしばし思う。
なにしろ丁寧である。それを扱う清岡の言葉も態度も紳士である。どこかきちんと賭け金を置いて言葉が書かれているように思う。
詩や小説に限らず、そこに自分の身が賭けられていたというような。それは自分を血祭りにさせるものでなく、この世界のうたかたの中の多くの同胞(それは同じ国、言葉に関わらない)のひとりひとりの窓辺に、耳元に、言葉が生きて届くために、そのために賭けられた肉体だったのだ。
そんな気もする。

もはやそれ以上

      黒田三郎

もはやそれ以上何を失おうと
僕には失うものとてはなかったのだ
川に舞い落ちた一枚の木の葉のように
流れてゆくばかりであった
かつて僕は死の海を行く船上で
ぼんやり空を眺めていたことがある
熱帯の島で狂死した友人の枕辺に
じっと坐っていたことがある
今は今で
たとえ白いビルディングの窓から
インフレの町を見下ろしているにしても
そこにどんなちがった運命があることか
運命は
屋上から身を投げる少女のように
僕の頭上に
落ちてきたのである
もんどりうって
死にもしないで
一体だれが僕を起こしてくれたのか
少女よ
そのとき
あなたがささやいたのだ
失うものを
私があなたに差し上げると

解説はヤボなのだけど「私」は気がついたら空っぽで、空っぽだから失うものなんてなくて、もうどうにでもなってしまいそうだった。そのとき、あれでもそれでもなく、「失うもの」がやってきた。