細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

無と無の無

 なんだ、いろいろまずい感じになってきたな。

 僕は、様々な場所で固い孤独を見いだす。自分自身も固い殻に覆いながら。嫌悪と不快と苛立ちと意味のわからない善意と、それらは、けして万全ではないが、明らかに顕わであるようなもののような感情である。

 自分の真実のありようというと大げさかもしれない。しかし、自分がどうあるか、どう変わるのかを常に問うていないありように僕は不満である。

 おまえ、それそのあり方なんとかならんかということだ。それは変えられるはずだ。しかし変わらない。変わらないように見える。お前なんか知らんと思ったりもする。それは僕が、おまえに愛情だかなんだかわからないが関わりの気持ちをもつからだ。

 ただ多くそれは僕自身に帰ってくる。自分自身が嘘やはぐらかしや自己愛による自分への哀れみを他に強要しつづけている。そういう形で配慮させ他の意識を支配しようとしている。

 それは全くまずいのである。

 自分が動かずに周りを動かすか、同じように動かずに神的な奇跡や救済を期待し続けるありかた。そのあり方がしつこくこびりついている。我々の中で、間で。

 その根底にあるのは無力である。その無力は、自分が他を支配できない、声を聞かせられないという形でみいだされた無力である。


 無力というのが問題になる場合、それは多く自分にとって望ましい状態を出現させられなかった無力であり、そこでなぜ、それを望んだのかその欲望のあり方が問われることは先ず無い。

 そういう風習が我々の中で形成されていない。

 自分の欲望の構成・配列を問うこと。例えば痩せたいというとき、そこにどんな目的や理想や邪悪や要求があるか。
例えば、金がほしいとき、それを実現しようとするとき。逆に金なんていらないというとき。世界を救いたいと願う時。恋をしたいと願う時、ロハスでありたいとき、迷惑や害毒を撒き散らしたいときなどなど…
 それらは遂行されながらいつでも出発点にいつでも戻れるようにしておきたい。その原点に戻れるバカみたいな力が人類にはある。それが希望であり絶望であり、体験を構成する元素。また振り出しかという粒粒。問いなおし。それは清算ではない。なぜなら生きる限り原理的な「すっきり」は悟りにしかないから。

 なぜなら、人間が生れ落ちて実現「すべき」ことは生来ないからである。その生来の「目的の無さ」に出会うとき、「目的の無さ」への向かい合い方も形成される。それがほぼ「性格」と呼ばれるものだろうか。

 無以外にあるのは、しかし無はどちらかといえば、いつでも顔を出すものだ。言葉を話す時、その言葉の裏側やそれをうける地面は存在を保証されない。その保証は無い。無である。
 だから話さない。どうでもいいということがひとつある。

 しかし自分が存在することが一定の場所として他への表れとして、かならず衣食住を必要とする。ここになぜか、無から無で無いもの、無の無が出現するのだ。

 無と「無の無」の戦いにおいて、僕はいつもどうでもいい、どうにでもなれやと願う。それは「自分がいる理由が無いことは正当である」という認識と、「自分がいる理由が無いことは正当であるということだけではすまない」という声との争いである。

 例えばこうだ。自分が老い衰え、生命がよわまって行くということ。そのような形で僕は自分が消えていく過程を携える。同時に、それはしかし、そのように消えながらも、また次の日目覚めるのも何かである。

 どちらも意志なのだと思う。しかし生きる限り、なすこととなすべきことと「なすべきだが、よく考えたらそんなに大事でないもの」、「大事ではないと思っていたが、実際はそれがひつようであった」、「しかしなすことですらなかった」あらゆる自分の線路を切り替えながら、その都度、「無」と「無の無」の抗争に戻り、毎日議論がつきない僕の体の中で。

 しかしおいおいちがうだろうということはいって、じぶんと周囲の関係を変える取り組みの中で経験される何かがある。それをたがいが知り合うことにまだ意味があると僕はおもう。
 それすら必要ないなら、またそれは考えるよ。