細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

真面目な顔。面白い顔。―私と暮らしと言葉と

http://gogen-allguide.com/ma/majime.html
はあそうか。真面目って顔つきのことなんだな。
何しろ「面目ない」の面目があるからな。
意味としては眼だけぱちぱちしている感じで。
近世は「真面目な」顔って、なんかつまんない顔になったんだな。


面白いというのもある。
http://gogen-allguide.com/o/omoshiroi.html

ぱっと顔が光る、つまり顔が明るくなるというのもあるが、実は目の前の世界が明るくなることだった。視野が開けた。眼から鱗。つまり、「面白い」ってのは「発見」したり「気付いたり」したときのうれしくなる感じを指している。

目の前が新しい意味をもって立ち上がってくるときに同時に表情も変わってる。面白いってことは、自分と周りがまるごと鮮やかになることなのだ。
顔だけつくろっても、あるいは、周りだけ変えてもどうにもならない。


ということは如何に些細に見えてもそこで意味というか意味づけ自体が変わるので、茂木先生のようにクイズ的に「アハ体験」できるのではない。
いや、クイズでもどんな些細なことでもけっこうその日常性が変わることなので、それはいつ起こってるかなかなかうまくいえない。けど、なんかあの時からちょっと変わったということはある。

きょうお話したいのは人が変わるということ、とりもなおさず私自身がどう変われるかその手がかりをすこし長いが考え始めてみる。
そこでは「言葉」が重要な鍵だと思う。自分のやってる詩作のことを先ず話す。
        
 1.ひとりごとと自分以外のもの―詩、自閉症

詩を書くことにひどくこだわりがあるわけではないが、実はあるのかもしれない。それはある行やフレーズを思いつくのがある道が開けたようにも感じるときがあるからだ。詩行は待っているだけでは出てこない。でも待たないと出てこない。自分の中で化学変化といおうか、そういうものが起きて、回路が組み変わり、今までいえなかったことがあまり苦もなくいえるようになる。
そこではまた異なる沈黙の領域が出てくるのだが。
つまりすべてを塗りつぶすように、文章を自分色に染めつくすことはできない。そうするなら見るも無残な自分だらけのそして何もない文章が出来上がるのだ。


つまり「同じ色」とかで染めつくすなら、それはもはや黒塗りの文章と同じである。自分の中の異質な部分や他人の入る場所を自分が占めてしまうことになる。しかし他人が入らない文章は原則的にないのだから、それは何も述べない、固有の意味のない、「わたし」のない文章になる。


ひとりごとというのがある。詩は、つまり言葉が生まれるときそれはひとりごとなのかもしれない。そうでないという証明は大変難しい。
しかし自閉症者の独り言であろうとも、近くでぼんやりきいていると、その抑揚からパターン、単語が刻々変化している。それで自分は介助者だったときに「今日は○○さん調子悪いなあ」とか思ったのである。独言の声が少ないときにはあるいは小さいときには、表情もやさしい感じがする。大きい声をはりあげ緊張する時は、眼も見開かれ、瞬きや顔の表情も険しい。怯えているようだ。
それは周りの状況の変化と自分の内部のバランスがおかしくなりだすと起こる。人が多い。情報が少なく判断しにくい時である。
自閉症者の言語について、実はもっとさまざまなことが考えられるが、しかし逆に外界と対応しすぎているため言葉の組織化が間に合わなくて硬直しているように感じる。つまりそれは独り言ではない。逆に外界からの刺激に耐えている状態のように感じた。耐え切れず大声を出してしまうのである。たぶん。

だから支援としては、まず日常を穏やかに過ごすということを考えた。そこから日常があるから変化もあること。ただし私の場合、あまりその写真をつかうとか図解するとかああいうTEACCHプログラム*1とかは使わなかった。グループホームは厳密には家ではないが、両親が亡くなる、ひとりで生きる場合には家として機能する。そこを想定して、ここは一応おちついて過ごせる場所、つまりくつろいだりご飯食べたり寝たり、ちょこっと遊んだりそういうベースをお互い確認し、読み合わせればいいと考えた。もちろん喧嘩もある。

2.変化を味わう/ゆっくり過ごす/愉快に生きる―エックハルト


はるか昔の宗教者エックハルトはこう述べる。

わたくしが肉体的な、そとにあらわれた業作よりも精神的な業作の方をはるかに高く評価することは、今までに何遍も言ったことである。
然らばどうすればよいのか?
キリストは四十日四十夜断食し給うた。この点において彼に倣うには次のようにすればよい、すなわち、まずお前は、お前の心がいかなるものに向ってもっとも多く傾いているか、いかなるものに真先に飛び付こうとしているかを如実に観察するがよい、そしてそれができたらそのものに関してお前の我を棄却するのだ、そしてくれぐれも自ら反省し戒慎するのだ!実にお前にとっては、心に渋滞なくこのような棄却を実践することは、徹底的な断食の実行に比してしばしばはるかに多くの祝福をもたらすのだ。

長いからここでひとまず切る。「我を棄却するのだ」にはひっかかるんだけど。でも自家中毒に陥らず、より自在な生を実現するくらいの意味で、今は読んでみようと思う。(きっと宗教には半端ない力があるから、すらすらとのるのも変な気がするからだ。しかし大切なことが書かれているのはわかる。単に宗教アレルギーでは面白くない)


さっき「面白い」を顔が明るくなっているのみに還元してはならないといった。それは、そこで動いている表情に限らない空間全体の変化を見逃さないようにすることなのだ。

ここでエックハルトは「精神的な業作」といっている。枝葉にまでいたる心の全体的な動きといってもよい。それは局所的な反応だけでなく多元的な動きや変化をさすのだろう。

表面的な、あるいはくすぐられたり、脳のある部分が刺激され、嗜癖や依存(=<心がもっとも多く傾いているか、いかなるものに真先に飛び付こうとしているか>)が生じることでは人生は根底的には面白くならないといっている。大事なのはそれではもうひとつだといっているように思えることだ。
断食もひとつの嗜癖と考えるならば、あまり自在とはいえない。やるなとはエックハルトはいわない。しかしこの場合エックハルトはそれよりも、そうしたい自分を見つめることで、断食すら直接にはあまり意味はないとすら言い切っているように思える。それより大事なことがあるという。


つまりそれは自分を動揺させない、しかし感じることをたくさん感じる最大の方法だ。断食で心落ち着けるまではせずともやれることがあると彼は言う。

それは流されないことであり、逆にいえば自分にはまりこんでしまわないことだ。そういっているようにも思う。
自分にはまりこんで悪いループにはまれば、自分の持つ単一の論理に意味づけされる。全ては「陰謀」か「冗談」でしかなくなる。わたしはそのような人生はいやだ。


それよりもこうエックハルトは続ける。

同様にお前にとって、ある一言を口に出さずに置くことのほうが、一切の言語から遠ざかって全き沈黙を守るよりも困難なことは少ない。同じく我々人間には、覚悟の一大打撃よりは、取るに足らない些細な侮辱の一言がはるかにたえがたいのであり、荒野の中で孤独を守るよりは人中でそれを守る方が難しく、どえらいものを断念するよりは微々たるものを思い切る方がしばしばより困難であり、自ら認めて大事業なりとなす業作を行うよりは些些たる細事を実践することの方がはるかにむずかしいのである。このような次第であるから、人間は誰でも弱ければ弱いなりに充分我々の主に倣うことが可能であり、自らを主より遠く隔たれりと見做すことは、不可能かつ許されざることといわなければならない。


耳が痛いのばかりなのだが…しかしつまりは生をかけがえのないものにするために、それをしかと感じるために味わいつくすために出来ることは意外にすぐそこにある様々な変化や日常の無意識の作動に気付き、実際に変えることにある。それは不可能なまでに巨大な「革命」を要請してはいないようだ。
しかしエックハルトにとってこれが革命なのだ。なぜなら、そのような些細なように見える行動こそがその人のあり方の「丁寧さ」「細やかさ」そして「全体」に関わると感じるからだ。それは拝み方がどうのという教だけではなく、それも必要かもしれないが、日常を豊かになるたけ誇り高く生きることだ。そのために「低く」生きるのだ。

これでは当時の教会に「異端者」にされたのもわからないではない。闇雲な「ありがたさ」を拝むのではなく、生きていく上で、実際に不思議や神秘を感じる方法を取るからだ。しかしシステムは細部の矛盾をみつけられたなら、そこにある綻びを皮肉られたと感じたなら、攻撃してくる。当時の教会は、自分たちが教えを守るのだと考えた。しかしエックハルトはイエスの言葉を素朴なそれぞれのやり方で考え、実践できるといったので、排除された。
イエスそのものが自分たち自身が変えうるといったひとだろうし。


  3.素顔に向き合う―レヴィナス/プロではないこと


話が変わったが、戻す。いやある意味では変わってない。

なんらかの外界と自分の相互変化がつまりは「面白い」ことなのだった。しかし「変化」を受け入れるのはエネルギーやその人の幅と呼べるものがいる。これを「変化に対する基礎体力」と呼ぼう。
それは人によってちがう。しかし表情の深さ、身のこなしということでも判断しうる。人間は生まれる前、あるいは生まれてからずっと内的な変化と外的な変化にはさまれている。その危うい境界面を比ゆ的に「顔」と呼べると思う。


これはわたしの発想ではなくレヴィナスという哲学者が非常にややこしい形で、人間が人との「関係」を見いだすのは「他者の顔」においてなのだという。つまり誰かが辛そうに、楽しそうに、あるいは退屈そうにしているその顔自体に、果てしのない、簡単に決定を許さないものを見いだすのだ。


ふつう顔というのはまずは人に見られる体裁とか様子の中でもいちばん明確に思える。


しかしそうではないようにも思う。それは明らかであると同時に「判断」の難しいものだからだ。
それが何を語っているのか。揺れというか戸惑いがある。


「父の顔はあのとき怒っているように見えた。しかし悲しそうにも、いやどういうふうに…」というふうに。
「あのとき恋人が去り際に、何か言おうとしていたように見えた。しかしそのまま人波に消えた」というように。

逆に「あれは絶対私を許していない」
「あのときのじいさんの顔はとても幸せそうだった」というように。

そのように顔は、あるいはその人の存在から派生する景色は、言葉にするにはなにか違うものがあり、そのような体験が人をして思い、考えさせ、届かなさ、あるいは届きたい、いや止めておこうという逡巡や長い時間性を作り出す。


人は少しずつ吐き出すように、置くように、もやもやに促され、止むにやまれず言葉をもつことになる。むろん話すことは喜びである。あるときは苦痛この上ない。そのどれとも異なるものでもある。
しかし人は共通の他者と同じことばを話すようにも出来ている。しかし自分に訪れた体験は謎であり、そこに道がないので、そこをどのように話すか思っているはずなのである。否応なく、今までの話し方にのっとって、つまりは一応学んだ話し方によって始めざるを得ない。この意味で、言葉に対して実は万人は外国人なのである。日本語同士を話していてももちろんそうなのだ。
言葉にとりあえずのっかかるのだ。

一瞬のうちに話されても、言葉は流れ・つまり時間をもつ。それは変化しながら、次々に意味を変える。実は覚束ないのだ。詩の場合もそうだ。日常でもそうだ。言葉に関しては「完全な使い手」はいない。だから、話すことは楽しくもある。

言葉をつなぎながら、おきながらそれを目印にしながら、誰しもがおずおずと進む。そのきっかけになるのが、レヴィナスの場合謎としての「顔」である。


私はしかし「顔」が言葉のはじまりであるとどうしても思えなかったのである。今でも人間の顔だけがそうなのだろうか疑う。レヴィナスには是々非々でそう思う。


しかし、顔が自分が侵入し得ないまま、こちらに無限に様々に語りかけることは確かである。自分の体験からも、どのような立ち場や属性であろうとも、その人が自分の近くや記憶にいるということは、日常でありながら奥深い経験である。もちろん私は犬の眼差しも深いものを感じるし、また樹の肌理もそのように思える。
レヴィナスがそこまでのことを述べているかはわからない。すこしかんがえてみたい。

ただ、レヴィナスが難しいのは、それが「殺人」の禁止を孕んでいたりするんのだ。だから難しい。


ただ、以下のようにいうとき、人は人に対して、異なるものに対して受身であらざるを得ないから、言葉を話したのだと思える。
それは人が言葉に対して原理的には「プロ」ではありえないことをさす。もちろん言葉を書いたり、読んだりに特化している、専従している人はいる。それは実際、分業ということもある。アーカイブや何かをひとまず生かすということ。でも書く人間がある意味では、専従として認められるとしても、どこかで言葉は最大の公共財であり、逆にそれぞれに言葉があるといえるほどに極「私的な」何かであることをわすれたらまずいなあとは思う。
徒手空拳で、言葉をつかいはじめる、その手前で生きていて、しかし生きることにはつねに言葉が関わり、それを使い、痛い目にあい、喜び学ぶ。その過程をレヴィナスは「享受」(受けとる?)というふうに呼ぶのかもしれない。
ふつうの「発達心理」的な説明とちがうのは、成長や加齢があるとしても、いつからでも始めうる希望を前提にしているからだろうか。つまり「正常発達」ということを前提や要件にいれない世界。右肩上がりに成長し衰えるのではない。瞬間瞬間に、人が起きたり寝たり生きたり死んだりしていることだけを、その瞬間の現勢に着目した世界。

時間自体がうまれはじめる世界。つねに始まっている世界。


えらいとか、支配的になれないこと、あるいはある場合に支配的であっても、他の場面ではちがうというところにレヴィナスは言葉の「公正さ」を見ているのだと思う。
もちろん慣れたり、「うまく」いいまわすことはできる。しかしそのことからは言葉がなぜ人のこころを打つことがあるのか説明できない。

顔は所有を、私の様々な権能を拒む。顔の顕現、その表出において、感覚的なもの、それまではつかむことの可能であったものが、把持に対して全面的に抵抗するものに変容するのである。

言葉はむずかしいが、ひとはひとをけっして脳内においても事実の上でも我が物としたりつかみとることはできないというふうにとれる。それは倫理上できないというより、ひとをひととして感じるのは、その本質上、つなぎとめたりわがものとすることができないということのようなのだ。これはレイプゲーム規制の話に似ているが、実はまったくちがう。
例えば自分の友達、恋人、家族、同僚などなどと思って、そう感じ共同体を作っている。しかしその大元にはそれが友達や家族でなくなっていくという「無常」感と一体である。しかしその無常があることが、いつでも切れることが実は共同体の存在をささえてもいる。

触れ得ないことを強調してすぎていると批判されるが、そうそう自分があるとか他人がいるなんて、すげえ言葉をすり抜けるもんだみたいな。

捉えられない・切れているというところにつまり人間のつながりの一番肝心なぶぶんがあるといおうか。

そのような寂しさと、埋めがたい断絶を見つめたり、嫌悪したりしながら表現が出てくる。

(他者と:石川註)居合わせていることは、イメージという中立的なあり方ではなく、みずからの悲惨と<高さ>において私に関わってくる一箇の懇願である。私に対してことばを語るということは、現出のなかに避けがたく存在する、手でかたどられるすがたを不断に乗り越えることである。

言葉は翻訳のせいか固いのだが、お説教のような臭みやおしつけがましさは否めないものの、人が自分のそばにいることがどんなにすごいことかヒリヒリと感じ、そこから言葉は始まると。人のそばにある緊張や、その素晴らしさやばからしさ、なんでもなさ、安心などなどが言葉の無力と力を育んでいるという意味に私は取る。

言葉は「不断に乗り越え」ようともがいているのである。わたしたちが存在するいかんともしがたい悲しみから生まれ出るのである。

 4.他者は「悲惨と<高さ>をもつ

他者は「悲惨と<高さ>」をもつ。思い起こしてほしい。身近なひとでもいい。

それはもっとも気高く感じると同時に、意味がわからず、裏返しにどうでもよくなったり怒ったり、心底、あわれにもみえる、そのような同情を許さない強さも、恩寵も、きれいなもの、かわいいものをも発してる。犬だって、雲だってそのようにいと高く激しく儚いものだと思う。
それが日常の千変万化と不動のように見えるありさまを支えている。
平等というのをこのように考えたい。


儚くてそれがどういうことなのかわたしたちはよく意味もわからずぼんやり通り過ぎてもいる。
レヴィナスは他のロマン主義者とちがってそれを否定はしないように思う。熱情ばかりで人生はできていない。それをそうとう強調している。少なくとも「全体性と無限」や「実存から実存者へ」や「逃走論」においては。根本的には更地から、いやそれ以前のうもれた地点から戦うのだからわかりにくいが。

しかし同時に熱心なタルムードの語り手でもあるから、私にはその部分はうまく見えていない。自分に拾えるものを拾おうとしている。なかなか読むのがむずかしくしんどくもあるけど。。

うまくつながらない上に、長くなってしまいました。読んでくださった方ありがとう。

※引用文献

神の慰めの書 (講談社学術文庫)

神の慰めの書 (講談社学術文庫)

全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)

全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)

*1:http://www2.odn.ne.jp/tensin/autism/teacch/program.htmlこのページはTEACCHの良心的な解説である。しかし私が苦手なのは「構造化」の部分である。写真や絵文字というような、こういうのは使い方をまちがえると、本人をバカにしているように使われることがある。そうしている支援者もみたことがある。実際、こうしなければダメ的なマニュアルではなく、生活にありがちな偶然性がその基盤になるのがいいと思う。包括的が計画化にすりかえられてはならない