細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

ノマドである

 ちょっと昨日のエントリは息巻いていた。今朝は水周りの掃除をしてから認知療法の本を読んだり、なぜか山口昌男の本をパラパラ。今日は朝方雨降って、今は天気良し。
 本でもその人の話し方でもそうなんだけど、脳内だけで軸をつくってやっている人がいる。でもそこにその人の呼吸とか、身体の全体のノリとか景色が入ってこないとどうも疲れる。こちらも脳で計算する形にあわせてしまいがち。

 もちろん脳は集約された場所だからそこはセンターというかそうなんだけど、でも、そこで捉えた反応だけではきついなあ。山口昌男は引用をいっぱいするけど、すごく運動性が高い気がしている。いじめについての言説は昔すごく蒙を啓かれた。

 話は変わって宮台さんの政策提言は一定の意義を持つわけだから、彼の野望による誘導は置いといて使えるものは使うと。裁判員批判や社会保障の論はかなり僕のもわかる感じだった。

 昨日はエックハルトと、田中小実昌の「ポロポロ」を見てたんだけど、ああいう意味のわからない祈りとかどうしようもなくそうなってしまうもの、そういう不可思議が言語の中核にあって、それを詩や文学はダイレクトアタックするわけだ。

 結局感染はそこから複数者とか異者につながるより、世のため人のためにつながっていく。でも、人間の生命は、どっかへそ曲がりな純情なのだから、意味わからんほうへ漂流していくんだと思う。異者というか時空間感覚の変容に向う。旅というか竹熊健太郎も言ってたけど、他の共同体を知ることによって己をしるというか。単にちがうシステムがあるということを感じるだけでまるでちがう。
自分の実存の仕組みがそこから見えてきたりもする。

俺は旅は苦手だけどね。金はねえけど、いったら思い出になるもの。

こないだフランスのミッテランのブレーンをやってたジャック・アタリという思想家が「ノマド」ていってたよ。懐かしい言葉だな。NHKでやってたんだ。

 イチローなんかは国境を越えて活躍するノマド(超ノマド)あとは難民として国を越えて自分の住める所を探す「下層ノマド」、それから私たちのほとんどだとアタリはいってたけど、ネットやマスメディアの情報やインターフェイスを通じて社会の領域をまたぐ「バーチャルノマド」がいるといってたよ。

 たぶん自分が食うや食わずでいる金も生存権も失いかけている大量のノマドと、俺みたいな情報で判った気になっているノマドが人類の大半なんだろうか。つまり自分で日銭をなんとか稼いであとは、情報でしのいでいる人と生きていくには手段を選ぶことができないかなりの人、イチローみたいに自分でいる位置を勝ち取るごくわずかの人と。

 でも日々の動きの中で誰しも位置を動かしあるいはとどまりしているのだよ。たぶん。
 そこで利他心が育たないと困るとアタリはいうんで、たとえばグラミン銀行みたいに貧乏人に無担保小口で金を貸して自立や仕事を支援するのをアタリも始めたんだって。マイクロクレジット - Wikipediaって言うらしい。そうしたほうが実はハードルを低く出来るから結果的に彼らもヤル気が出ると。自立支援なんだな。自立支援と社会支援が一体。なぜなら貧困者がきちんとした商売できたらその地域も活性化するから。でも極貧階層には届きにくかったり、金利もけっこう高い。でも、ハードルは下がった。それを効果的な個人とその周りの生活圏の支援につながるのか?みたいな。これソーシャルワークいるよなあ。コミュニティワークというか。

宮台さんは社会と個人を実は対立させて社会のほうを強化させる路線。それでもって社会が個人をこぼさないようにするという。どっちがいいか不明。

 たぶんサブプライム自体も低所得者層がローンを組みやすくしたんだけど、それを証券化させる時にやり方がまずかったと聞く。これも単に批判されているけど、どういうふうに人がそれもひとりひとりが社会の中で生きていけるかということで、単に金融屋が大騒ぎしただけとかの批判は論外だと思う。私たちの生活にお金が必要だけど、それがうまくつながれていない。そういう問題でお金自体は生活に大事だと思うから。浮かれたバブルはダメだ。ではダメだなあと。

 具体的にどうやって生きていくかみたいなきっかけになるものが大事なんだ。宮台さんのも制度設計といいながら、精神論な気がする。でも、多くの人が心の余裕をもって利他的に働きかけるには「他人が気分がいい」ことで自分も気分良くやりがいになるというシステムしかない。そうアタリはいってたな。

 たとえばレストランはお客がうまいと思って、また来たいと思えばレストランも儲かるって。

 なんかそういう意味で回転がいい、流動することはしんどいことではあるけれど、快楽でもあるんだと。ドゥルーズのいってたことを思い切り世俗化した感じだけど、まあアタリの方が良くも悪くも成熟していて老獪な気がした。宮台さんの議論はやはりナイーブか。

いやどっちがいいかほんとはわからない。でもなんかパターナリズムがすぎるのは苦手なんだな。どこかで自由がないと俺はダメだ。わがままだけど、好きにやるってのがベースにあって困ったときに助けたり助けられたりという。だっていつもいつも苦手な人やものに囲まれていたら、どんなものもいやになってまたおかしくなるもの。