細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

信頼を考えるの続き

 http://d.hatena.ne.jp/ishikawa-kz/20090512/1242117476の続き。
気になるのは、彼が高度な合理性と非合理性の綾を使いながら、「スゴイ人への感染」といっちゃうところ。

重松清の短編「青い鳥」についてこういうのだ。

主人公の先生は強度の吃音です。その先生が、子どもたちを「いじめ」から遠ざけるための、極めて大切なメッセージを語ります。「本気で話したことは本気で聞かなくちゃいけないんだ」という印象的な台詞です。
先生の本気が、生徒達に「感染」していきます。人の「尊厳」を傷つけ、そのことで「自由」を奪ってしまうのがなぜいけないことなのか。それは「理屈」ではありません。「社会の中で人が生きる」ということを支える前提です。なぜそんな前提があるのか誰にもわかりません。
だから「ダメなものはダメなのです」

利他性というか人は共に生きるんだというかそういうことに触れていて、宮台さんの凛質が出ているいい文章だと思う。すばらしい。人の権利を守るということの本質の文章。でもこれが弱点でもあるんだなとも思う。

僕もいい先生がいた。小学校六年生の時に担任だったN先生という先生。その前年いじめられていた僕は、この先生をみるとほっとした。彼女は乳がんで、片方の乳房を摘出していた。水泳大会かなんかの時にいつも水泳の時水着の上にTシャツを羽織っていたから理由を聞いたら(スケベだな)、「先生、癌の手術で胸が片方無いの」といったのだ。

その先生が本気で誰かのおふざけを叱っていたことを思い出した。
しかしそれは「スゴイ人」なんだろうか。いや確かに自分にとってスゴイ人だったけど、でも理屈で説明できないんじゃなくて、それが感染しておれも立派な大人になる!と思ったのとはちがうよ。

なんつうか、そういう上下関係とはちがうんだな。ではなく、むしろ日常にある普通の人の今ここにある無限の物語だ。もっといえば、その人が死ぬんだなとも感じて。だから有限性でもあるな。

個人的な思い出をもう少し続けると、高校二年生のとき、先生が亡くなって、そのときはもう離婚されていて。なんか曇った日でね。悲しかったな。同級生と自転車漕いで葬式に行ったんだけど。

それは「感染」といえば感染なんだな。でも感染っていうと誰かが侵入してきて犯されるイメージ。食うか食われるか。免疫系との相克。バリアーを破る。

それはそう。でも、それよりはそのときに自分の扉が開いて相手が入ってきてくれた感じが強かったんだ。自分というしょうもない存在だと思っていたものとほとんど同じ目線でしかし、当時癌は死ぬ病のイメージだったから死ぬかも知れない人が来た。

そういう到来/迎えるという力。それは先生のほうがやさしかったから子どもが心を開いたということには還元されない。それは宮台さんならテクノクラートを目指す力にもなれば、逆にもなるという力。

それは正確に言えば、宮台流の「スゴイ先生」に置き換えられない。

それぞれが未熟で不完全ながら時々何かに出会ってしまうそういう場所が自分の心の中にもあるということ。それは実際社会や大人を尊敬する力になるかどうかもわからない。因果関係もわからない。しかし自分の土台の一部にはなっていると思う。

しかし以下の議論のように変奏されるとこれはとんでもなくちがう方向に行っているかもしれないと思う。

永久に承認から見放された「クレクレ野郎」を育てない、というパーソンシステム上の問題に加えて、多様な人たちが共生できるような社会をもたらすという社会システム上の目的もあります。
こうした議論は、もちろん全体主義の危惧をかきたてます。現にこうしたヴィジョンをもっと早い時期に掲げた社会学タルコット・パーソンズは、統合主義者・全体主義者として1960年代に糾弾されました。確かに危険なパターナリズム(温情主義)です。世直しを目指す密教の危険さの一つは、ここにあります。
だから神秘主義なりグルイズム(導師主義・尊師主義)なりの箍を嵌め、一定の枠から外に出さないようにするわけです。ただしこれは一般大衆向けの防火壁(ファイヤウォール)であることに注意すべきです。現に多くの一般人(パンピー)は無害な神秘主義の内側で、前世がどうたらこうたらとピーチクパーチクさえずるだけです。
流動性多様性が高い社会で、個人が他者を承認すること通じて承認されるために不可欠で、かつ社会が民主的な形で存続するための不可欠な要因が、パーソンシステム的には感情や感覚の幅を拡げ、かつ社会システム的には「感染し感染される」関係性を拡げる、「感情教育」だと思います。

神秘主義密教の外皮でありシュタイナーの哲学もそうだ。それは大切なんだと宮台さんはいいます。しかし高度な合理性や非合理性の操作が得意な宮台さんの限界がここであらわれています。
つい、社会および魂の救済を目指したオウム真理教の信徒たち
を思い出します。宮台さんが同じだというのではありません。ただ、高みから社会を構築し、良くしようとする発想のとり得る落とし穴に宮台さんが自覚的かどうか僕は心配なのです。

僕の個人的感覚からしてもいい教師に出会うことで、あるいは体験を拡げることで、さらに自分を深めていくことが重要なのはさっきもいいました。僕にもそういう先生がいました。しかしそれは外から注入されたのではなく、自分の受容体に合致した、扉が開いたということです。これは実際人知や設計を超えている気がします。もちろんいい先生がいて、それだけじゃなく賢い大人がいて社会が相対的に安定することは火急のテーマです。

しかし「グルイズム」を呼び出す恐れがあるのを気にしながら宮台さんはそれを必要だとも思っているようです。もちろん人と人が心を通わせるほど「秘教的」なことは内容にも思います。

しかし、そういう指導にしたがうことが社会のためだといわれても、そうして社会のためとして、全体が優先されることはあったわけだから、その危険を良く考えて欲しいのです。

「信頼」ということは自他がはっきりしない「境界」で起こります。だから「感染」というのでしょう。
しかし、互いの存在の不可侵性や届かなさ、つまりそういう遠さはグルイズムという同一化とはちがう方向にも伸びていきます。模倣を呼び出すだけでしょうか。そこでは、自分がたったひとりの実存である。相手もそうである。という形で感染ではない仕方で、相互に距離を感じることで世の常を知る力があると思います。

それは自分だけの思い出として保存されます。しかし言葉や文章を通じて感染ではなく「道を通ってアクセスしあう」こともあるように思います。互いの届かなさ・本気で話しても届かないことを知ることで寂しさもしり、しかし伝えたい(愛したい)・あるいは伝えない(愛さない)というそれぞれの距離が発生します。これをニーチェは「星の友情」といいました。(はてなスターのことではないですよ)これも「信頼」の培地です。近さだけが信頼ではない。信頼は近づく遠ざかるという相反する力を持ちます。関係性ってそうじゃないだろうか。

その孤独のかけがえのなさこそが加藤容疑者の知りえなかったことだといえばいいすぎになるでしょうか。孤独と孤立はちがうといいますし、そうだと思いますが、しかしその違いはそれほど自明でしょうか。
包摂されえないことも社会にはあることで社会はなりたっているというか。逆に孤独であること、ただひとりであることの意味こそが衰弱し、仲間がいなければさみしい人間だという価値観こそが加藤容疑者を自らをして追い込んだ可能性だってある。間違っているかもしれませんが。
彼を誰かが諭してあげればよかったのかもしれません。しかしなんとなくちがうようにも思うのです。そういう加藤容疑者が人を殺さない道はあったかは考えなければいけないとしても。

個人的な自分の思い出から考えたからまるで学的に客観性はないかもしれません。あしからず。