信頼を考える
- 作者: 宮台真司
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2009/04
- メディア: 新書
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しかし各論点では、宮台さんには知識や経験の上で歯が立たないながらも、各論では是とするものもあり、非とするものもある。
しかし総論というか僕がこの本の焦点だと思う「信頼」や「すごい人への感染」つまりは社会連帯の基礎となるものへの彼の考察は、この本の記述がごく端折ったものだとしても違和感がある。でも、もうちょっと検討しながら書いてみる。
彼がカントいうところの「人倫」の範囲、いってみればそれぞれが致命的に破壊しあわず共存を続けるためのモラリティの領域で、信頼を議論しているのはわかる。互いが疑心暗鬼していては共同体は持たない。彼が言うようにポストモダン社会のみならず、社会は多くを人為的なお約束にたよっているからだ。しかしそれのことごとくが、信じられないものになったり疑いに曝されたら社会は壊れてしまうのではないかと彼は感じていると思った。
もちろんそうなのだ。
たくさん勉強になった文章がある。
一々上げてはキリがないので、ちょっとだけ。
自己決定という概念は実は複雑です。(略)科学的に厳密な意味での自己原因せいがあるか―については答えは否定的です。
人間もまた自然界の一部ですから、決定論の枠内にあることになります。だからこそカントは、因果論的な意味での自己原因性とは別に、主体性を定義しようとしたのです。
自然界はどうあれ、人間界―カントは人倫の世界といいます―は、「誰がやった」という帰属や「だから誰に責任がある」という帰責なくしては回りません。因果論的な自己原因性とは別に、帰属や帰責を可能にする主体性を正当化するためにカントが持ち出したのが、「自由意思」の概念です。
それで面白い例を出してくる。
これは意思するという営みが制約されていないことを表すものですが、社会システム理論では「自由意思」をもう一段掘り下げた思考を展開します。法学における「過失不作為」の概念がヒントになります。
たとえば、僕が車で優先路を走り、停止標識を無視した車が、僕の車の後部に衝突したとします。
どう考えても「相手が悪い」のですが、判例では十分の一の責任が僕にもあります。
?
理由は、僕が絶対に回避できなかったことを証明できないからです。クラクションを鳴らす、速度を落とす、目を合わせる、進路を変える…これら回避選択肢が僕になかったと抗弁するのが、通念上難しいということです。
そうだったんだ…過失相殺って言葉は習ったんだけど。。やっぱりそうなってたんだね。
裁判では、これら回避選択肢の選択を意思することを制約する条件が特段なかった以上、意思できるのにあえて意思しなかったと見做され、過失不作為(という作為)―意思しなかったという意思―が設定されるのです。
自由意思の概念は、因果論というよりも、高度に複雑な象徴操作の産物なのです。
つまり、自由意思とかなんとかっていうのも、人情では理解しがたい(向こうがぶつかってきたんだろ!)が、そうじゃないと人がその人であるとか、誰がそうしたっていうことが成り立たないから出来たある種のお話(象徴操作)なんだなと。そうやってお互いを調停しながら、平等とか公正をぎりぎりで確保しようとする社会なんだと。それをあまりに疑ってはいかんと。だってお互いの自由を確保するためにカントや過失不作為のお話があるからだ。議論もしていいし、裁判もOK何をいってもいい。けど、逆手に取ればどこまでも誤解やねじ曲げが可能と。
これが宮台さんの根底的な社会観というか人間観なのかと感じた。いつもそういう警戒心があるんだろうな。だから個の自己決定は大事なんだけど、難しい場合、共同で決定しなきゃいけないとか。これは今まで社会問題と思われていたけれど、個人の成長で補おうという調整というか。そうしないと「世知がら」すぎて生きて行けなかったら社会も維持できない。しかしあまり個人をかばいすぎだと訳がわからんくなると。
ここを梃子にして、しかし限度を越えて人に責任を負わせたら行かんよという議論があると。秋葉原殺傷事件の犯人も格差とか、その人の性向とかではなく、社会がそのような不完全な人間存在への責任の問いを過大にやると「あんなもん許さん!」ってなる。まあゆるさんはわかるんだけど、行き過ぎるとこわいよな。それに対して「彼は負け犬であり社会の犠牲者だ」という擁護論が出てくる。
しかし宮台さんはこういうのだ。
僕が「誰か(加藤容疑者に:引用者註)なんとかいってやれよ問題」というのはそのことです。15年ほど前に雇用環境が大きく変わっているのに、いまだに親や教員が言うがままに「いい学校・いい会社・いい人生」を信じているというのもあり得ません。加藤容疑者のそうした勘違いは、彼が社会に包摂されていなかった事実を示します。
僕が驚くのは、こうしたコメントを僕がマスメディア上で流すまで、この事件は専ら「格差社会が悪い問題」として語られ続けていたという事実です。今日の学問水準的にあり得ない議論だという以上に、真の問題に気付いて伝える者が少ないこと自体、我々の社会の包摂性の低さを示して余りあります。
これは悪くない議論だなと。
でも、加藤容疑者がやらかしてしまったらしいことは措くとしてもそういう実存の複雑な綾を社会が包摂できるのかな。だって、社会的な成功価値の古いモデルを自分がもてないから「非モテ」だというのは、なんか「誤解」とだけいえないような。彼の社会観は稚拙である。誰かがいってあげなかったのも問題である。しかしそれだけなのか。そこで終わってはいかんのではないか。
というのはやはり加藤容疑者が一応自分のしんどさの多くを「社会」のせいにしたように見えるのは他に自分の苦しみに与える言葉を持たなかったからではないの。
でもそれで衝いている真実もある。しかし間違ってもいるという感じではないかな。自分がなんともいえずさびしい感じ。「さびしくて苦しい」感じ。それは社会が相対的に余裕をもち、まともになり、宮台さんのような社会エリートがせっせと縁の下の力持ちになっても、一定割合出てくるんではないか。
逆のパターンだけど、昔旧約聖書に「ヨブ記」があったではないか。優等生で神に感謝し、財産をなし世俗的幸せを獲得したヨブがいきなりあらゆる財産を奪われ、神に怒りをぶつける話を。なぜ僕はこんなにがんばったのに神は報いず逆に苦を与えるの…みたいな。
それを社会科学でなんとかしたり、セックスでなんとかしたり、ある奴は犯罪したり、競馬したり、学問したり仕事したり酒飲んだりで埋めているんだよな。理不尽さみたいなのを。
宮台さんがそういう現実感覚をもっていて児童ポルノも厳罰よりは棲み分けで見たくない人が見てしまっていやな思いをしないようにする権利を確保し、見たい人は見させてガス抜きさせるというのもわかる。
けど、それでもなお、彼自身の議論を「信頼」しにくいのはなぜかといえば、彼が悪者だからではない。しかし僕なりの原始的な嗅覚で、朝生とか出てたときも思ったけど、やはり人の議論を封じて問答無用で押し通すときのやり方がなんというか…すいません、もっときちんといいます。
なんというか宮台さんはそれでも誰かが考えるべき領分を奪っているんじゃないかと。加藤容疑者を野放しにしていたのはまずかったけど、しかし加藤容疑者だってなんだって、もうちっとややこしいから社会には宮台さんにはノイズというか社会の敵・ハミゴにしかみえないものにも何かがあるというか。そこまで含めて社会だと。
上に続きます。。