メルロー
今日は大学の時から世話になっている方のところへ、会いにいってきた。いなり寿司をいただいて家へ帰って食べた。
あと、ジャズを聴ける店に行った。丁度ライブ時間帯にさしかかってのんびり聴いていた。いい声だった。が少し甘すぎる気もしないでもなかった。
宮台真司の本を買った。この方は情報に敏感というかそういう感じなので、勉強になる。勉強になるところが宮台さんの欠点なのかもしれない。
勉強にならざるをえない。勉強になりすぎる。困った。勉強になってしまった。
どの分野でも努力して身につけていく。セックスでも、社会学も、マンガもネットも生活も。
でも、う〜ん。宮台さんはそうしてきたんだろうなと思う。もちろん僕のようなボンクラとは千里の径庭があるわけで、比較なんてできぬ。
ただ、なんつうかそうなのかなあ。それだったら僕の人生の大半の意味のわからない経験というか言語化していいかよくわからんぐらぐらしたものは、大半が「薄い」ものとしてとりこぼされるんだろうなとは思った。
どうもこの本には「どうでもいい」への反撥と「これしかない」という確信だけがある。「どうでもいい」が「これしかない」に至る道を書いてはいるけれどそれを「履歴」というらしい。そんなふうに「履歴」となっているのだろうか、そうかもしれない。しかし人と話すときに最初と最後をはっきり決めて話さない。法律についてとか数学とか論文ではテーマと結論があってその間をロジックで埋めるのだろう。
ただ、宮台さんもそうだと思うのだけど、やっぱりいくら考えてもうまく入りきらん。それは濃淡とかではなくて、端的にそこにごろんところがっているために見えていても見えないように処理されている何かみたいなものが、宮台さんの文章からは見えにくい。
ただそこにある風景。ただそこにある、あった何か。何かをしている間にそこにあった、感じられた何か。そういうことが意外と生を支えている地下茎なんだ。僕はそう思うな。
意味があるとか無いとかも大事なんだけど。そんなに生き急いでいるばかりでは窮屈でないかいと。僕も余裕はないんですが。
古い本だけどメルロ=ポンティの「ヒューマニズムとテロル」の方が読み進めやすい。メルロ=ポンティは生きながら学問しているので、学問があってそのために生きているわけではないんだなと思う。この本はどうもロシア革命の体制が様々に敵対者を名指して、粛清していくのはなんでか考えているみたいなんだけど。
これではじめて習ったんだけど、メルロ=ポンティにおいては人間をよくしていくために革命があるのではないみたい。いままで捉えられてこなかった人間の様々な姿を捉えてそこで生きて生きたいという止みがたい望みみたいなものが起こす運動が革命のようです。
それがいつのまにか人間改造みたいな発想にいたり殺すって感じになりみたいな話になるのはなぜかって進むのかなあと今読んでて思ってる。
それにしてもバスっていい乗り物だな。あの憂鬱感がなんだろうなと思う。光とかなんか。