細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

囚人ですらなかった―孤独と参加を考える

よく拝読させていただいているid:Arisanさんのエントリhttp://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090507id:ueyamakzkさんのブログをFreezing Pointずっと読んでいて、何か自分の身に照らして思ったことを書きます。お二方の日記と直接はつながっていないかもしれないので、恐縮ではありますが。。

 やっぱりなんか僕自身がいつもきれいごとに傾きすぎの気がするです。自分は悪くない、イノセントであると思い込みすぎるときがあるというか。被害感がつよくなるとそうなります。なんでかなあとよく思うのです。
 泉谷しげるさんがなんかかっこよくなりそうになると、荒くれ者みたいに悪口をいったりする。そうやってバランスとってんのかなと思ったり。ちょっと露悪的すぎなのかなとも思ったり。むずかしいです。

 でも、自分は悪くないというふうになんで思いたいのかっていうと、そう思いたい面と実際そうだという面があると思うのです。
 実際生きているってことは、それ自体は善悪ではないというか。でも、同時になんとなく罪深くも感じられる。その揺れがネックなんです。僕自身にとって。

金がないとか、病気だとか、孤立しているとかそういうのが重なってきます。すると自分はダメな人間なんかなとか努力がたらないのではないかとか思うんです。こないだスラムドッグ$ミリオネアを見たときも思いましたが、金がないとか、大切な人を奪われるとか、周りが顧みてくれないってことが常態化しだすと、辛い。惨めです。辛いし、それは自分の努力の足りなさばかりにしだすと、とうていこれは精神的に耐えられない。本当の意味で死にます。これをまず強調したい。
 
 スティグマとかラベリングっていうと周りが差別して「あいつはダメだ」ということもあります。が、大事なのは、自分自身で自分は周りよりダメな人間だと自己自身を疎隔してしまう部分も見ないといけない。人助けや支援を考える場合、互いにかかっている鍵を、それぞれが開けていくことによってしか成り立たない。相手の閉じた心を開けておしまい、あるいは、自分が寛容を見せておしまいという、それではすまないんです。正直めんどくさいです。でも自分自身もそうだから。でも介護の仕事しててもこれが一番面白いけど苦しく自分の未熟さや不満がどっばと出ました。他の従事経験がある方もそうかもしれないけど、だから福祉という仕事に対しても、なんともいえない屈託や両義的な感覚をひきずっているままなんです。


 相手の心の扉が開かないと怒ることがよくあります。でも考えてみればその自分自身が動けなくなってしまっている。膠着した観点に立っていることにも気づいてしまう。どうしたらいいかわからない。苦しいからそこに閉じこもる。ひきこもりの例なんかもそうかもしれない。それは苦しいから必要な緊急避難です。しかし、でも避難した自分の部屋とか心の砦にいてもなんか変だなあと思えてくる。自分もどこに壁があって相手とつながれないのか不思議に思うときがあります。

カフカがこういっています。

彼は牢獄生活に満足したことであろう。囚人として終わること―これはひとつの人生の野望であり得た。けれども彼の入っていたのは、格子作りの檻だった。この格子を通って世界の騒音が平然として傍若無人に出たり入ったりして、この囚人は実際、自由の身だったのである。彼はすべてに参与できた、外部の出来事で彼を見落とすものは一つもなかった、檻から出ることだってできたであろう、なにしろ格子の間が一メートルもあったのである、彼は囚人ですらなかった。
フランツ・カフカ「彼」長谷川四郎訳(福武文庫『カフカ傑作短編集』より)

実は参加できるようで出来ない、したことになっていない。すべてが自由であり許されているのに。
これはカフカは自虐的に述べていますが、現在では、この世界の普遍的な互いの疎隔の様子であるように思います。

一メートル開いていることで、自らを守り、あるいは守れず逆に苦しめていることがあるのです。その扉を破壊したり、こじ開けようとしてもあまり意味がありません。見かけ上は「開いている」から。しかしそのまま受容しても本人が救われているかどうかわかりません。「囚人ですらないから」

「すべてに参与できた」、「囚人ですらなかった」というのは、私たちが生きる世界の自由と不自由の姿を適切に描いているように思います。

 私たちはイノセントである、罪がない、無傷である。しかしそうであろうとして主張すると他者がなぜか遠のいていきます。それぞれの距離は変わっていくのに、その変化についていけず、変われなくて変わることを望まずに、絶望的な疎隔と寂しさを味わう。僕がいじめられたりしてみたのはそういう光景でした。今でもそれが心の芯に巣食っています。

 ただ、そのこわばりのようなものを梃子にしてしか本当には人とつながる実感は得られないだろうと思ってはいます。
 この意味を深く考えることが「関わり」を考えることであり、そうでないならば友達が100人いても、0人でも孤立している。孤立しているということは実は、孤独にすらなれない。我に帰れないということなのだと感じています。

  もう一つカフカの言葉を。

すべてが彼に許されている、ただ自己を忘れることを除いて、ところが、それによってすべてが拒まれている、この全体にとって今の瞬間に必要なものを除いて。

カフカ傑作短篇集 (福武文庫―海外文学シリーズ)

カフカ傑作短篇集 (福武文庫―海外文学シリーズ)