細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

It's OK to be who you are.―森巣博「越境者的ニッポン」を読んだ

 

越境者的ニッポン (講談社現代新書)

越境者的ニッポン (講談社現代新書)

 森巣博の本は食わず嫌いで読んでいなかったが、今回直感がひらめいて読んでみたら面白かった。
 読みやすい。簡潔な文章です。時論的なエッセイの集まりなのだが、ちゃんと芯が見える。非常に主張もシンプルです。でも、それを森巣さんのくだけた文章で読むからいいんだろうなあ。

 さて。いいなと思ったエピソードを。それはオーストラリアにいたころ息子さんが小学校で出会った先生の話。

息子は集団行動がひどく不得手な子どもだった。三十歳を越した今でも苦手らしい。また日常生活をつつがなく過ごすために不可欠なこともできない(しない)場合が多かった。自分が興味を抱かない事象には、恐ろしく無関心な子どもなのである。
「フツーの子ども」たちがすることをできない、あるいはしようとしない子どもなのだが、それでも、わたしの息子であることに変わりはない。わたしにとっては、特別な子どもだ。特別な子どもには、特別な対応をする。当たり前の話だと思う。だから、妻もわたしも、「フツーの子ども」みたいに育てようとせずに、この子をこの子としてそのまま受け入れた。
 おそらく日本の小学校に入れていたら、息子はバカ扱いされていたか、集団行動がいとなめない厄介者として、陰湿ないじめの対象にされていた可能性が高いと思う。


森巣さんの様々な思いが直接は書かれていませんが、でも心打たれました。それは自分の子どもという観点、あるいはひとりの人間の位置から書かれているからではないでしょうか。とくに「いじめ」は日本でなら場所によってはひどくやられてしまうかもしれません。


続きがあります。

しかし、息子は独特なアカデミックな才能を持っていた。
小学校三年生の時、それを発見してくれたのが、前記のフリー先生である。
教室ではいつも上の空、教師の話も聞かなければ、空想に耽ってばかりいる息子の言語能力を心配して、フリー先生は息子に能力テストを試みた。すると、信じがたい好成績が出たそうだ。学年をどんどん上げてテストしても同様である。七歳か八歳だった息子は、中学三年生としても、確実にトップ1%に入る言語能力を持っている、との結果だった。ただその言語能力を駆使して、他の人たちとのコミュニケーションを図ろうとしないのが、息子の独特なところである。


これだとエジソンの伝記とか、アインシュタインとかにもありそうな話です。後にすごい発明家になるとかね。あるいは発達障害の療育の文脈で語ることも出来ます。けど、僕はそうではあるが、そういうこととは微妙にちがう感触をも感じました。それも続きます。

フリー先生は、ゲイである。そのことを公言していた。四半世紀も前のことだ。小学校の先生が、ホモセクシュアリティーをカミングアウトするには、大変な勇気が必要だったろうと思う。

それはひとりの人が「私」として迎えられたい、迎えたいそういう思想というのでしょうか。それはフリー先生が特別配慮した先生でありマイノリティーのことを自分のこととして考えていたという事実のみに還元できないように感じます。「ひとりの人として、あなた、として迎える」これが難しいから、この人は○○であるという属性で判断せざるを得なくなる。しかし、基本はそう「ひとりのあなた/わたし」だということです。個人主義がどうだとかそういうお話でもないのです、たぶん。もちろん僕もそうして相手を決め付けて尊重しない場面が多々あります。しかし難しい、忘れられやすいだからただのひとりのあなた/わたしであるということを維持したいと森巣さんはいいたいのだと私は共感するのです。だからこれは美談ではないのです。幸い森巣さんの息子さんはその後たくましくいきていくことになりましたが。


フリー先生の言葉を森巣さんはこう紹介しています。

その後の軌跡を振り返ってみると、なにもしなかった親の代わりに、教育機関の関係者たちが、いろいろと息子のために尽力してくれた。フリー先生は、大学院生のアルバイトを見つけ、毎週水曜日の午後だけ、息子はクラスの授業をスキップし、学校の空いている教室で大学院生からレッスンを受けたそうだ。五年生の時から息子は不登校気味になるのだが、水曜日だけは喜んで登校していたと記憶する。
前に紹介した、
"It's OK to be who you are."
あなたはあなたのままでいいのです(同化する必要はありません)
 と、フリー先生が息子に言ったのは、ちょうどこの不登校が始まった頃だった。
みんなと同質であることに価値を見いだす必要はない。少数者であることに誇りを持て。なぜなら、よく考えてみれば、全ての人間が外国人であるように、全ての人間は少数者であるのだから。あたかも自分が多数者の側に位置すると勘違いして振舞っていても、仕方ないのではないだろうか。
そういう意味だ、と息子はフリー先生の言葉を理解していた。


やはり単なる美談ではなく、自分がそこにいること、生きていることそのものに立ち返ってみてそこから始めなければ、「仕方ないのではないだろうか」
森巣さんはこれを障害者のことや国家の問題や教育、あるいは子育てなどにカテゴライズせず、当たり前だけど失われては困るものとして語っているように感じました。