細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

私の社会科―「評価」を考える

そっか。ある人と話してたら「評価」ってそんな悪いもんでもないといわれた。

漢和辞典で「評」を調べたの。つくりの「平」は音をあらわす「ひょう」で「公平」をあらわすのだった。だから「評」は「公平な言葉」という意味だ。続いて「価」「旧字体の賈(か)が音を表す、意符の「人」を加えてあきないという意味を持つ賈と区別して金がさを意味しひいて値段の意味となった」角川漢和中辞典より。

金嵩http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E5%B5%A9&dtype=0&stype=4&dname=0na&pagenum=11

さらに賈ががわからなかったので調べたら右のページに→http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kotukaron/kotukac.htm

こうある。

「價値」(のは價は:引用者註)漢字分解では人が暗箱(一+凵+冂)の中に入れている「貝=おかね」であるようだ。「おかね」の意味が覆い隠されているらしい。「襾」は「西」にも似ている。

なるほど。「価」というのは金嵩つまり金額なんだ。つまりお金の量、その値。だけどその元は人が商いをする様子のようだ。暗箱にお金をいれる。おそらく物を売って対価を手に入れるという価値の発生の現場なんだな。

だから上のサイトではマルクスの価値形態論までいくわけだ。

でも評価って言うのは値打ちを表すための公平な言葉っていう意味だとすると逆説的だよね。

値打ちって、ランク付けだからさ。おそらく公平でないもの(というか公平とかいぜんのよくわからない状態)を公平にって言うのは、これはキナ臭い話ではある。しかし実際の違いや差異をまず値打ちというか価値のシステム(この働きがよくわからない)で変換して量化した後、さらにそれを公平であるかのように扱うみたいな。


大事なのはその既に価値システムによって量化(価値化)されたものがさらにそこから評価されるというか。だから潜在的にこれは「見る価値あり/なし」みたいな話があるんじゃないか。

とすると、作品をつくったりそれを語るには価値の発生する現場まで行ってみないといけないよなあ。つまり魚をもった人がそれをお金と交換するとか、そういう場面に至る何かをとらえなきゃいけない。
で、そこで換金されたり、鯛はいい魚だってなっているのはなぜかみたいなのは「何」がそう働いてそうなっているのかっていう部分。そこで測られているのは何?みたいな。


使用価値とか交換価値とかあるけどさ、でもそういうのからの逸脱の連続できたのが芸術。というかその価値論を地でいっていたともいえるわけで。ただの便器に命名して美術館に置くと作品になるとか。しかし絵だって言葉だってお金で売り買いされて市場の中に取り込まれていく。あとはスマイル0円とか感動はプライスレスみたいなうそ臭いのになっていく。

この続きはまた考えようかな。


しかし作品がうまく出来ているというのはどういうことかみたいな。それをどこで計るかってことだよな。商品だったら、外部化して貨幣化しないと、客観性をもちえないから貨幣化したのかな。目に見えて何円とかじゃないとわかんないものな。でも、作品を語る際の秤ってどこにあるんだろうな?


詩人の金時鐘さんが講演で「詩は身銭を切って書くものです」といったけど。その際作品を出すってのは、身体から出てきた大切な過程を切り出して平場に置くってことなのかな?でも、実はばくち打ちとちがうのは、詩にはホントは胴元みたいなのがいないような気がするんだよね。オール賭ける人チャレンジャーみたいな。その代わり空手形も乱発みたいなのにもなりやすい。芸術って霊感商法みたいにもなりやすいのがこわいね。搾取にもなるね。それは価値そのものの根源が非常に暴力と繊細さのからむとこだから。センスがいるんだ。


評価の「評」でいえば、全員が実は素人というか平だからいいみたいな。でも、世界ってそうだよねって。闘争と差異が出たり引っこんだりしている。そこをちゃんと丁寧に言語化する。何かにはしておく。メモって置いたり、記憶も。それらは不確かだけど、でも、そんなに確かさを求めると、逆に確かさのきっかけが逃げてしまう。バリアフリーってのも結果そこへいくのかなあって。でもこれは理想論ぽいけど。

資本主義の世界ではお金を一応の価値の秤や他者との標準的な媒介物にしているが。でも、実は様々なものや現象が媒介しているのではないかな。


全部推論ですいません。