細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

一瞬先にどうあるかを想像する力を失いたくはない。

 朝洗面で頭を洗い髭剃り。昨日は合評会でした。そのことを思い出していろいろ考えていた。

合評について思ったこと。
 「評価する/される」ということを考える。作品を評価するというのは一見してよく出来ているか、成果を上げたかで判断されやすい。しかし実はそれが互いの創作意欲を減退させていることもある。読むものはそこから何が見えるか、何が見えたか、見えなかったかじっくり感じたり言葉にするということでいいはずだと思った。
 読むものの感想が様々な相互作用を作り出すことが出来れば、作品にしていくことの楽しさ・不思議さ・そのプロセスをそれぞれが感得できる。作者は見る人でもある。見る人も作品の生成に参加している。読んだり見たり、しなければ作品は発生し得ない。そしてそれがそれぞれの作品制作に影響を与え合ったり、与えなかったりする。

 生きるためには誰かに評価され、その評価がステータスを上げるというロジックはどこか悲しい。そこには作品制作自体や、それへの愛がないからだ。評価され、選別されることを愛だと勘違いしている人は、他者を選別する暴力を振るってもいる。多く、私も含めて「評価は大事ではない」といいがちな人間がそのような暴力をふるっている恐れがある。
 しかし恐らくそのような愛が横行し続けて人間性の根底が破壊され続けている状況がいちばん危険なのだ。感情的になるなというのではない。存在があるレベルを超えて恣意に任せられ続けるという自体が危険なのだ。

 しかし自分にとって、それ(言葉、あらわれ)を読むことや書くことがどのように浮かんでくるか、来ないか、別にごまかさずに話すことがいちばんいいのではないかと思った。その意味で主観性に発言させることの意味は大きい。


用意して東大阪へ行く。天気快晴。湿度も低い。

歩きながら道中用事の間、自分が手に何も持たず、無防備でフリーハンドで、相手と付き合ったりする意味を考える。それは人間とか生き物の権利との関係に及ぶ。

人間や生き物はたぶんその本質上剥き出しであり、傷みやすい。しかしその傷みやすさを向けなければ人や世界と触れたことにならない。
 感受性っていうのは、目にしても鼓膜にしても非常に薄く震えやすく出来ている。皮膚もそうだ。それは微妙なものをたえずとらえている。雲の早さ、人の無視する目、犬の毛の温かさそういうもの。

 私は一般社会で要請されているより人間や生物は繊細で弱いのではないかと思う。しかし同時に私たちが想像するより柔軟でしたたかでもあるのだ。しかし、その繊細さとしたたかさが私の想定しているものと一般社会ではどうも異なっているように思う。なぜだろう。

 例えば私は介護のときに苦手なメンバーさんがいた。そのメンバーさんに自然に接している他の介護者がいると魔法でも使っていると思っていた。しかしそれぞれの人はそれぞれの遇され方、もてなし方をもっているのだ。
 逆に私が仲良くなるメンバーさんでも支援が難しいと思う人もいた。ある人は「丁寧な関わり方」と評価した。ある人は「あなたはどういう方法をつかっているのか」と聞いた。しかしそれは方法論でもなかったし、どうすればよいかという答えもなかった。つきあっていて、どうすればそれぞれが伝え合えるか。そう「伝える」あるいは「届くかどうか」という恐れとおののきが大事だったのだ。

 どういうことかというと、我々は気を使われすぎるのはいやだが、一人の人間として尊重されたい。その上できちっといいあえる関係を作りたい。それは誠実とかどうとかではなく権利である。

 労働社会・経済社会では、様々に言葉を変えながらもその権利を別の言葉に置き換え続け、実は「権利」という問題を多角的に考えることをタブーとしている。しかしもはやその問いを避けることは出来ないのではないかと個人的に感じている。お互い様という言葉が私は好きだが、しかし私もすぐに疲れ、いやになる。それは病気ではないだろうに。繊細さでもない。感覚していることを感覚したといったらいけない。痛みや苦しみを仕事の中で感じても、次の日もその次の日も出続けなければならない社会では、感覚の劣化が起こる。それは「鍛えている」というのとはまったくちがう。

 私は大いにわがままに愛されたい人であり、気難しい人だとはわかっていうのだが、しかしこれは絶望的すぎるかもしれないが、しかし互いに互いの尊重され、互いに関わったり、かかわりをさけたりする自然な権利を我々は「仕方なし」として破壊しあってはいないだろうか。

 例えば喪中という言葉が示すようにかつては、そのように「思う」「偲ぶ」ということが一定期間保障されていたはずである。それはなんの法律にも書いていないが権利であろう。それに類するような休む・楽しむということの暗黙の法がどんどん磨り減っていき、お定まりの娯楽に置き換えられていったのではないかとすら疑っている。

 もちろん古い社会に戻れというわけではない。しかし業務に穴をあけるなということがまかりとおったりしたら、やはり私の感情はすぐに壊れるだろうと思う。そしておそらく例外なくそうなっている。サボりを奨励はしないが。

 疑いが生じてくるのはやはり悩んでいるのではなくいやだからだ。嫌々でも働くのだと人はいうだろう。しかしなんとなくそれがボタンのかけ違えのように私は感じている。(こういう思いを隠しておくことのほうが私の周囲のものにも不誠実だと私は思う)

 心配しすぎかもしれないが、私は今35なので自分がだいたいどれくらい丈夫で、弱いかなんとなくは把握している。現下の労働社会で、いつつぶれないともいえない。そのとき、身体や心を壊すのはいやだ。もうあのように狂うのはいやだ。悩み苦しむことに意義は認める。しかし端的に、現在の制度下では全力でぶつかりつぶれたときのリスクは大きすぎる。

 障害年金を書くときにわかった。生活保護の申請を手伝う時にわかった。困った時に公的な支援を受けようとするとかならず所得や病気のひどさ、つまり自分が貧しいことや頭や身体がおかしくなっていることを証明する書類を添付することになる。これは本当に辛いことだ。だからベーシックインカムのような議論が魅力をもちうる。公的な支援・保障の在りようを考えることを先延ばしには出来にくいはずだ。あまり悲観に傾くのはまずいが、社会的な紐帯が破壊され続けると極端な同質性を強要する社会が登場してしまう。そもそもこの国では「公共」が「みんなの」とか「迷惑をかけない」とか「自助で」「いや政府がちゃんとしろ」というような依存か・自助かの二項に引き裂かれていないか。自分が生きている中での不便や、難しさを語る経験が痩せていないか。自分でやりとげることの効力感が薄れていないか。

 もちろんこの世界に無償の何かなんてあまりない。でも、やはり、人が苦しんでいるという証文がなければ休めない。その間の所得が保証されないとしたら、それを身内や協力者の愛や善意に頼らないといけない。私は様々なひとの協力を得られた。しかしそうでない人は?

 悪い場合ばかりを考えてはいけないといわれる。いやしかしちがうのだ。もしもの時の備えがある程度ない限り人は、宗教や特定の人の恣意的な評価や愛情に頼らざるを得ない。そうしないとくたびれたときに生きるのは辛い。でもその愛情の恣意性が暴力(虐待など)に変わる場合どうそれを考えるか。これが疑問である。もちろん自由に野垂れ死ぬ権利も人間にあるのは知った上でだが。

 自分の中で自分がダメになるという恐れが強すぎるのかもしれないが、しかしリスクも勘案しておかないと社会的行動は無謀さになりかねない。自由と制度的な保障をどういう関係性の上に置くか。

 つぶれを致命的にせずに働くということもあろう。しかし生老病死前提に考えてはおきたい。それが人類が営々としてきた普通の生だと思う。明日何が起こるかわからないとしても、今の瞬間を楽しむことが大事だとしても、一瞬先にどうあるかを想像する力を失いたくはない。

気分の良さを増大させることが出来れば、様々なことがもっと考えうると思ったりする。自分が変なだけかもしれないが。