細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

どうでもよかったり、かけがえがなかったりする人間

帰ってきたら岩波文庫ショーペンハウエルをふと取り出して1番目のエッセー「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説に寄せて」だけ読んだ。書名「自殺について」。最近、鬱々した日記なので、やおらこの人は死んでしまうのかなあと思う向きもあろうがそうではない。
「自殺について」はショーペンハウエルの主著「意志と表象としての世界」の補遺みたいなものでできている。主著を読まない人も多いようだから(なにしろ生前ショーペンハウエルは全然人気がなかった)わかりやすく短く書いてやったといわんばかりの本です。

訳者はキルケゴールの「死に至る病」を訳した斉藤信治。なんか死関係が多いのかな。一つ目のエッセー「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説に寄せて」はタイトルが長い。ではなくて、おおくくりに趣旨をメモッておく。
簡単に言うなら、生きているということも死んでいるということもその根本に、人間が決して完全には知りえないもの(物自体)があり生死はそのあらわれ(現象)にすぎない。ということは生と死も対して変わらない。「生きたい!」「生きたい!」と力むから期待を裏切られ死にたくなるのだ。しかも死んだら自分の個性が亡くなると不安になっている御仁がいる。

しかし個性なんてものは生と死を出現させる大元のもの(物自体)のごく一部にすぎない。そんなものにとらわれているから世界を狭く捉え、「つまんね〜死にて〜」となるのである。

そんなんでつまんなくね?そんなんアホクサクねえ?とショーペンハウエル翁はいっているみたいである。

さらに君は一個人であり一個体で歩けど、それを存在させるパワー(意志)は、いつの時代も営々とその営みを繰り返してきた。それは別に努力しなかったらダメとか努力してもダメとか何をしたらだめとはいっていない。うまく行ったように見えたりうまくいってないように見える変化の総体である。つまり融通無碍でいい加減なのだ。不安定な安定なのだ。それでいいのだ。

だから君はその力をその足元にもって生れ死ぬのだから、君はある意味で無名のどういうふうになってもいい(しかしそれゆえに自由な)うたかたの存在であると同時に、物自体やその発言系である意志に支えられているともいえると。ぺらぺらで紙みたいにどうでもいい存在である形で自由であるという点でショーペンハウエルは異色である。それは他者から存在価値を奪われることを肯定しない。が、必要以上の過剰防衛してもそれが自我という桎梏となり自縄自縛に陥ってこの世が地獄であるように見えてしまうということだ。

以上自分の言葉で「自殺について」の「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説に寄せて」をまとめてみた。

これを書く途中にオヤジと電話していた。オリックスソフトバンクのチケットをくれるかもしれない。ちょっとうれしい。