細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

life goes

下の記事のように書きましたがもやもやそわそわしています。どっちつかずというか。そうだ。デイケアにいても、けっこうそわそわするのだ。デイケアにも様々な立ち位置、事情の人がいる。社会参加を一義的というか固定的に考える人もいれば、もう少しちがう形で考えうる人もいる。今日ある人が、「病人の位置からだけでなくて、福祉の方面からも、いろんな方向から考えられる人だとおもうよ」といってくれた。
 でも、僕はそんなに器用じゃないよとも感じるよ。その人が僕のことをちゃんと見ているのはわかっている。でも、資格を持ったって、車と一緒で免許取ったって、車にすぐきちんと乗れるわけではない。多くペーパードライバーがいることがそれを証明している。

 でも、ある部分では社会参加への足がかりをつかんだとはいえるんだ。それはもちろん働きながらデイに通っている人もいるけど、やはり無力感や閉塞の中で、かなり身動きがしづらい人が多数いる。だからその点では僕は少し異質になりつつある。

 その上でしかし、自分の認識は現在の社会の平均的な息苦しさはかなり高い気もしている。この認識には妥当な部分と、恐怖や先入観もあるだろう。先日のブコメは社会の暗黒部分につよく自分の様々な感覚が反応したからだろう。

 自分の思想というものがあるとすれば、自分は否応なく固有の生を持つという認識の上にある。自分には自分の人生がある。かならずいい意味でも悪い意味でも自己中心的である。しかしそれは大事だ。自分が様々な変化を遂げ、様々な側面を持つとしても僕は僕なのだ。

 様々な意味でうまく立ち回ることなんて結局は無理をすることだ。自分が生きてて感じる何かそういうものを感じていたい。ドゥルーズなら生成というんだろうな。そういう様々に変わってきてこれからも年取ったり色んなふうになる僕が居て。

人間というか生き物ってみんなそうだよな。自分は失敗したり挫折したりするのが恐い。なぜか現実に倒れるとひどく困るのがひとつ、その過程で様々な自尊感情の低下や変化を蒙るのがひとつ。つまりだれかよくわからん人や者の都合で苦しめ、自分を殺したくはないのだ。

 でもそれでガードばっかり固めてても動けなくなるだろうっていう。そういう感じもして悩ましいわけだ。僕の認識ではこの国ではかなりうまくやらないと、自分が傷つき倒れた時自分の最低限の生きることも確保しづらい国なんだ。助けてくれる家族や仲間がいなければ、社会にすりつぶされる。

 それはある程度どんな社会でもあることなんだけど。でも、なんか辛かったなあと思うんだ。障害年金申請するのだって、どれだけ書類を書くか。いや、僕は症状がひどすぎて書けなかった。だから親や支援センターの人に手伝ってもらった。僕が出来たことは、医師にありったけの症状や不便を話して病気の全体を医師と共有して診断書を書いていただくこと、それから意見書を書くことだった。しかしそれだけでも御の字だった。

 だからそういう綱渡りの中で僕に協力してくれた家族や、仲間の存在には感謝している。これからは一人でやらないといけない。助けてもらう側から手を差し伸べる側に行く。
 とここまで考えて疑問が浮かぶ。自分は助ける側とか助けられる側とかは状況次第であって、それを固定することがその感覚が自分を苦しめているのではないか。現在だって、自分でやっているしたくさんの人の手を借りている。それは同時進行なんだ。これからもきっとそうなんだ。自分で背負わなければならないことは増えるだろう。でも、適切に協力し合い、助け合う。自分が元気になったら救済者になってばかりいるということが、自分の驕りや依存や回りとの良くない関係を生み出すもとだったりするのではないか。

 その人に負える責任は限られている。人は有限である。例えば現在SMAPのあるひとが容疑者として報じられる。法を犯したのだろう。そのことの責任はある。しかしいかにアイドルとはいえ、社会的責任が大きいとはいえ、彼だってひとりのただの俺たちと同じ人間なんだ。俺と歳の変わらない人間なのだ。ファンだからとかそういうのではないが、よってたかって騒いだら彼がどうなってしまうのだろうか。それが心配だ。

 僕は別にテレビに出てもいないし、有名人ではない。(当たり前か)でもさ、自分が不安定になってくると自分についての不安や守ろうとする心が増大する。それが極限に達すると精神が壊れることがあるのだ。もし犯罪を犯していても、そこで人間は極度の臨界点から一挙に燃え尽きうる。それが恐い。そういうふうに追い込む社会は人を大事にしない社会だ。どの程度の犯罪事実があるのかは全くわからないが。

 僕にはこの社会は人をまったく大切にしない部分がかんじられてそこに敏感なのだ。それが極度の不安や、自分の社会正義や、怒りや絶望や不信とどこかでつながっている。しかし少しずつ、そうではない、いろんな人もいると感じ始めている。そういう形で病気はいえている。
しかしそれが例えば自分を取り巻く社会で、人を大切にすることになっているかコンセンサスはあるか非常に不安である。そこが自分の無意識の核の近くにある。それが社会とか人間に対する両義的な心を作っている。自分は守られるのだろうか。身包み暴露され、根こそぎにされ、地の底へ叩きつけられないか。

 しかし今はそうなっていない。だからといって安心はできない。安心なんてないんかもしれない。自分は豊かといわれる時代に育ってきたが、親父に比べどうも不確実性をたくさん抱えているようなのだ。それが可能性であり、絶望である。

 自分の中の支え、根っこを大切にすること。それは思い出であったりなんかの微妙な感覚であったりした。見えにくいものでありいいがたいものであった。だから詩を書いていたし、今も書こうとしている。自分には複層性がある。書くことで様々な瞬間にいったことがある。今はない。しかし再び新たにそれを作ることができる。そこからそこを通じて、社会へも自己の核へもちかづけるのかもしれない。

 言葉は自分と社会を分かちがたくする。しかしそこで自分の苦しみの語りがたさも出てくる。分かち合えなさ、自分がひとりであることを感じる。同時に束の間この世界で共に生きることの感慨もある。うれしさや素敵さもある。
 不安になるとあやふやな、グレーゾーンをなくし絶対をしかも恣意的な絶対を求める。しかし誰かが絶対に用意してくれた確実な地盤はない。
 だからこそ、この儚さ、むずかしさ、繊細さを守ろうとして人間はつながりや社会とよばれるものを作っているのではないか。不安定で動揺して常に自分が生きている死んで行く不思議や恐怖や不条理に向き合い続けるたったひとりの自分。それをどうあらわし時には休み働きするかその分業の、仕組みとして、枝分かれとして、人と人や、言葉や約束というものがある。裏切られ、裏切るけれど、それを再建しようとする。それが今弱っている。僕の中の力もまだ弱い。そしてしかし実は社会だって全て絶望ではないから、まだ存在している。その存在を信じられず傷つけることで社会は弱り、またそこをチャンスとして社会はちがう形に再生しうる。

 時々自分の中の不安や弱さが世界と反応する。もう少し現実的・実在的な中にそれを働かせてみる、作動させて様子を見るということもありだ。それは今も詩や生活という形でやっている。それを続けていこう。life goes で、それらの表現型のひとつとして、しかし生活の糧として仕事だってある。そんな当たり前のことに今思い当たったりもする。そうなのだ。断絶でもあり地続きでもあるものとして、今は自分にはひどくゆがんで見える社会の姿がある。しかしそれを亡くすのではなく変えることで生き延びることができる。社会を防衛するとか破壊するではなく、その傷つきやすさ、複雑さのまま捉え、作動させることが必要なのだと思う。そこでならひとは、いつもしんどいばかりでなくほっとだってできる(ような気もする。いまは願望)