細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

星の数を見て―ある自分のブコメについての注釈

先日の朝日の千葉の全員皆勤の記事http://www.asahi.com/edu/news/TKY200904200295.htmlのブックマークhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/edu/news/TKY200904200295.htmlにコメント書いたら、星がいっぱいついて。で、星がこんなにたくさんついたのでそれが初体験な僕はとってもびっくりしたんですよ。
http://b.hatena.ne.jp/ishikawa-kz/20090421#bookmark-13072399

で、なんかドキドキしているので、主に自分のためにあのブコメの意味を考えてみたのです。ちょっとなんか過激だったかなあとも思ったのだ。
しかしいや、なんかrageかっこいいやんかと。で、ウオール街ゲリラライブ逮捕映像とか、ブッシュ批判的PVとか、911当時ラジオで放送禁止になったとか。
それと、学校を爆破したいとか書いちゃうと意味ずれちゃうし。学校に通うことの意味は否定はしないけど、そこでがんばるよりもっといかしてて面白くてかっこいいこともたくさんあるんだぜっていいたかったのが1つ。
つぎにらもさん。灘高校ドロップアウトして大阪芸大になんとか入って、サラリーマン辞めて躁うつ病になって、しかし後に作家としてすごく勇気を与えた。らもさんに「いいんだぜ」という曲がありますが、キュウキュウになるより、どんな病気だろうがくずだろうが、それも同じ世界に生きている人だろうって。好き嫌いは別として。

3つ目ね。それは昔だって皆勤賞ってのはあったのだよ。うちのオヤジももらったことあるって。俺は絶対もらえないからあんまり好きではない。でも健康ってひとつの価値だ。ひとりひとり体力の差はあるから一概に言えない。けど、僕は病気して思ったのは生きているなら、苦しいことばかりじゃないほうがいいのは確か。(病人がいてはいけないという意味とはちがいます)でも皆勤賞のあった時代でも病気がちで休みがちのやつに無理に出て来いなんていわなかったでしょうと。学校と労働の体制はどこかで結びついていますから、労働者はなるべく欠勤しないようにっていうわけだけど、サナトリウムに入っているやつもいただろう。そいつは差別されただろう。でも、休むことは否定されなかった。それよりも先の記事は社会連帯的な幅とかふくらみのない話です。病気だけじゃなくて、いい加減な奴も、まじめな奴もいてこその社会であるから、人間は多様性を保ったのではないでしょうか。貧困や格差はそういうことより、実際に生きにくい、力を失いやすい環境を私たちが再生産しつづけるから起こるんだと思う。だから社会を構成する意味で元気に毎日通ってきて皆勤賞という意味とみんな出て来いでは意味がちがうんです。

ある程度の多様性が確保されていることが社会として望ましい。それぞれの生活事情・性格・健康全てを捨象している命令になりかねない危惧があるよ。たとえばかつて農家では農繁期に学校休む子がいた。それは一概によいことではない。子どもが労働力として借り出されるわけだ。しかし農業に限らず地域社会や自分が生きる世界との関係性で学校より大事なものがあるときにも休んではいけないのか。それはこの先生はどう見るのか。そこから考えても人類の多様性を無視した命令だと思う。日本社会のある部分での現実にはマッチしているが、逆にいうとそれ以外の人間が生きるために必要な何かを疎外している。

次に4つめにいいたいこと。これが一番個人的に大事かなと。いや、僕もねこの先生と年かわらないから、社会に出たら休めないなとか思ったこといっぱいあるの。だから実はあまり学校も休まなかった。休んだらダメだと思ってた。他にいくとこないし、ドロップアウトを恐れていた。でも毎日お腹痛かったり、脳貧血になったりした。それはなんでかなって。

一生懸命やることは大事。で、そのために自分が何をしたいかすべきかを考えるのが大事。今はそう考えている。すると、一番覚えなきゃいけないことは、常に全体の仲間に同一化して一体でがんばることばかりではないの。みんなが一体でがんばることの意味を全部は否定しない。

だけど社会で一番大事なのは自分がどうしたいかを考えて、迷いながらさぼりながらあるときは我慢もしたり、で、がんばれるもの好きなものを見つけていく過程だ。好きなものも何もない人生もあるし、空しさが人間の本質だと釈迦が言うという事情すらあって、これも単純ではない。ただだからひとりひとり人生は個別なんだから社会のルールに最低限従う必要はあっても、無理にみんなにあわせてばかりいると、その人は自分の人生を考える時間がなくなるの。俺もその一人なのです。そうすると回り回って個々の力が自由が弱ると社会もその命弱ってくるのです。つまり自分の出来る範囲で協力するという発想をこの記事は飛び越えてしまってる気がした。出席ということが、つまり参加する枠組みそのものも問わない限り出席という命題ばかりが浮き上がってしまう。
そこまでは考えたい。社会ってのは国家とかっていうよりも人と人が生活しつきあうそういう基本的なスタイルのことをここではいっている。それは果たして出続けることにあるのだろうか。
だからかつてはストライキや、サボタージュが機能してた。子守唄も曳かれ者の小唄も、梁塵秘抄も歌があって、人の暮らしの辛さやその明るさ暗さが入ってたの。人は自分だけの人生を生きるんだもの。労働もあるし遊びも歌も何もかもが人の生活には詰まっているの。それも真実だから。

あと学校に出ることはみんな平等に出来ると先生はいったよね。しかしそれがいまかろうじて出来ているのは日本とか、先進国だけ。しかもその先進国だって、教育や子育てに莫大な金がかかって、あるいは子どもへの暴力とか家庭の崩壊とかで様々な問題が起きている。つまり学校に通わせるというのは、様々な家庭があって、家庭によってはその権利を行使できない家庭もある。また学校に行くことで苦しんでいる子どももいる。世界に目を転じれば学校に行って社会参加の糧にしたくてもできない子どもが山ほどいる。学校に行く以前に命を落とすたくさんの子どもがいる。学校に行って、逆に行けなくて、そして大人になって、どちらの側にも苦労と喜びがある。だから社会を単に一枚岩のものとして考えないで欲しい。社会が休めない社会がどういうことなのか。それが望ましいことなのか。そういう現実に適応する社会に子供たちを送り出すことが先生として、たぶんリアリズムでいっているんだろうけど、どういうことなのか。それを考えて欲しいんだ。それも教育だと思うのだ。この先生が教育者ならそういうことはおさえていてほしい。同じ時代を生きた人だろうから余計思い入れが自分にはあるんだろうな。そっちにいったらまずいよっていいたいっていうか。話はずれているかもしれないけど、揚げ足取りかもしれないけど。

それと戦争のときの標語を使ったのはなんでか。戦争の時でもそうなんだけど、兵役検査に不合格だったら免除。でもそれ以外に老人や女性は日本列島で仕事をし続けた。その中の全員が不幸せだったかどうかはわからない。しかし確実に元気や戦力になることが至上命題となっている気がしたんだ。この記事は。では戦力にならない人はどうなったか。ナチだったらガス室行きってのもある。だからみんな一緒に成し遂げると言うことの意味はあるかもしれないけど、余裕のない状況でそれが貫徹されるとかならず排除や弱いものへの蔑視が起こる。はみ出しものが作り出される。そこを忘れていないかい。それは社会の寛容さを狭める。価値が痩せてくる。
そこで全員出席せよ、毎日来い、来ない奴は頭が痛くてもこさせるというのは変だ。それじゃあ総動員体制と何がちがうの。そのとき戦力にならなくなった兵隊はどうなったかというと、大岡昇平の「野火」という小説に詳しいけど、行軍を続けられない、野戦病院もいっぱいとなると芋三つくらい渡されてジャングルに放置されるの。あるいは田中小実昌の「ポロポロ」の中に中国大陸の行軍についていけず、気がついたらひとりひとり倒れていくけどそれはほっていく。

いや、これは僕が想像を膨らませすぎなんだけど、なんか皆勤をしかも全員一斉の努力義務ではなくほぼ至上命題の全員毎日参加が非常に恐ろしいものをもたらす気がしてしょうがないの。それを美談として記事にするってのも意味がわからない。心配性かもしれないが、そうなんだ。休んでいる子を思って、あの子どうしたのかなとか、プリントもっていってあげようとかいうのも学校にはあったと思うの。


最後に、rageのPVをある人に見せたんだよね。したら、その人はこんなかっこいい人が来たら、みんな学校に来たくなってしまうではないかと(笑)ある意味そういうふうなノリがこの記事にはないのだ。だからrageやらもさんを出したい。でもね、要は生きていくためのある程度の知識や知恵を学ぶ場所として、どういうものを考えうるか、この先生も、生徒達も、ブコメで批判した俺も、いやこの先生たちは悪くないという人も、かんがえなきゃやばい段階に来ていることは確かだなと星の数を見て思ったのでした。いや俺、先生じゃないけどね。