細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

回復・リハビリテーションメモ―上田敏の説を参照しながら

 自分はいまわかりやすくいうと、リハビリテーションの最中というかその仕上げにいるという認識をもっている。

 しかし、以前はリハビリテーションという言葉が嫌いだった。それはすでに戻るべき健常者社会の価値を前提にしているように思われたからだ。おそらく実際そういう部分もある。しかし経済や政治的な社会はその都度の政治や流行で求められるものが変わる。だから、じっさい戻るといっても浦島太郎になってしまって、戻りきれずに退却したりするケースが精神病患者などにも多いと思う。

 大事なことは、社会適応を是が非でも目指すという目標ではない。例えばフルタイムで働き、昔のように働くといったって、人間は年を取り変化するものなのだ。そこを目指すなら絶望だけが支配することになる。

 適応すべき外部社会や共同幻想に振り回されるより、自分が様々なことを経験したり、自分の思いや希望を表現したり、そのために試行錯誤できるということが大事である。国際生活機能分類ICF)はかつて国際障害分類と呼ばれたものの改訂版であるが、そこでいわれるのも自分が生きていくことが即ち、活動であり参加である。参加とは何かの組織に所属するというより、社会で生きざるを得ない人間にとって、そのひとりひとりが、自分の希望や意志を他者の中でかなえたり考えたりするためにどういうふうにしていけばよいかという動的なプロセスなのだ。
 参加は自分を活かすために飯を食い眠り、他者の中で話し合ったり、ひとりになったりする当たり前の生活過程がベースにある。よりその根底には人間は生き物である、ただ生きることの保障があるだろう。それらは緩やかにつながりあう過程だ。

 ただ生きるためにも人は社会や他者とぶつかったり協力し合ったり話し合って意見を述べたりしないといけない。そういう形で理性をもたざるをえない。非常にやっかいな生き物なのである。

 しかしその社会の中で様々な偏見や不便、環境要因による参加の困難が生じる。

 もうひとつは社会にもある壁であると同時に障害当事者を縛っている内的な壁である。価値観や社会的諸条件により、病気になってしまった僕は一生働けないのではないかと感じることは僕にもあった。これは自分の中での無力感が社会の苛酷な側面を拡大視させ、実際に困難な状況が目の前に現れるということである。
 引きこもりの人や精神障害者だけでなく、ほぼかなりの障害者が苦しんでいるのは、この二重の壁である。これは外的な人との折衝と同時に自己をニュートラルに見つめることが必要である。しかし要は弱さや障害が少しは残っていても、様々に傷つきやすくても、そのことを障害者自らが知り、知るための条件を周囲も協力して作る以外にない。

 その際に大きく立ちはだかるのは障害当事者のみならずその周りにいるものや社会そのものも共有する「あきらめ」と「居直り」である。

 リハビリテーションが専門の上田敏の説をまとめたサイトを参照する。http://www5.ocn.ne.jp/~tjmkk/hon004.htm

そこにはこうある。

「受容とは不可避(inevitable)なもの対面して自己主張をやめ、あきらめるということではない。あきらめには、自己の不運に対して従順に文句をいわずに頭を垂れるという意味が含まれ」

ていると。

 自分が生きている状況を受けいれることがその人の生きている意志を大きく損なうことであっては、その受けいれは苛酷さを持つ。病人なんだから大人しくしていればいいという言葉もこういう文脈では隷属を誘っているように感じうる。

また「居直り」というのもある。

あきらめと対極。自己の現状がそのままで最高・最良であり何らの改善の努力も要しないものあるかのように振舞うこと。現状そのままの是認。障害への安住。
障害の改善が思うように進まず(特に社会・経済的なハンディキャップが長らく改善せず)、慢性的な依存状態が続くような場合、一部の患者に「居直り」がでてくる

もちろんやたらめったらに頑張れということではなく、自分の生きている状況あるいは自己自身を見つめることは「そのままでいいんだ」ということは全く意味が反対である。
精神病症状の焦燥感や躁といったものはもっと強い衝動や不安感が勝手に暴走している状態だとしても、病者は、多くの場合うまくできないことに苛立ち焦っている。これは行き過ぎると苦しいだけだが、人間がよりよくなろうとする生き物なら焦りだって当然なのだ。しかし何に向ってよりよくなるかということやどのように準備して学んで自分なりの現実把握あるいは現実の変革に望んでいくのが大事だと思う。

 障害の改善を妨げている状態とは何だろうか。べてるの家のスローガンも「そのままの是認」に陥る危険を含んでいるかもしれない。

 またひとつ上田の説で気になるのは、生れた早い段階での障害を挫折のモデルで捉えうるかということである。しかし通常発達心理や教育の問題として捉えられることも、発達の早い段階で障害を負った人も、ある現実に直面しなければならず、人生の途中で障害を負った人とは逆向きだが、大きくなっていく過程でつねに自分の状況を新しく捉えなおすことは必要であり、あらゆる人は生きている限り新しく経験しなおす(反復しながらその都度のベターな方向に向う)プロセスを生きている。のだと思う。

最後に引用。
これは精神科リハビリにおいても大事だ。

価値の範囲の拡大(enlarging the scope of value)
自分が失ったと思っている価値の他に、異なったいくつもの価値が存在しており、それらを自分は依然として持っているということの情動的な認識(emotional realization;単に知的な認識ではなく、心の底からその確信に達すること)


なぜ病者は余裕を失うかというとこれまでの生き方が出来なく,
あるいは難しくなるからだ。しかしかつての生き方にしがみつこうとする。しかし新しい状況では新しい困難とチャンスが生れている。だからこそ、複数の価値や他者の存在を感じることにより、道は新たな方向に転換していきうる。価値や現実の創造が可能となる。これは具体的な感覚でありメタなものではない。しかしそれが閉ざされていると「居直り」と「諦め」が支配しだすのである。

ICFについては医学書院/週刊医学界新聞 【〔インタビュー〕新しい国際障害分類「ICF」(上田敏,佐藤久夫)】 (第2453号 2001年9月17日)を参照ください。