細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

診察の日

今日はひと月ぶりの主治医との診察だった。待ち時間は安部公房の『壁』を読んでいた。ずっとおしゃべりしている患者さんがいたので時々廊下に出ていた。ビルの空調システムを直しているようで空調が効いてなくて待合が暑すぎたのもある。他の診察に押されて、予定を1時間近くすぎて呼ばれた。まず社会福祉士試験に合格したことを報告した。やっと受かって脱力しましたと話した。
 先生もほっとしていた。最近ソフトに行ったり昨日はピースおおさかに行ったことを話す。だいぶん体力がついてきましたと僕は言った。先生はそうだろうねえといっていた。ただ僕は最近先のことを考えると本当に働けるのか、働くのはきついのではないかともやもやしてきていることをはなした。
 先生のいうことは簡潔だった。日々スケジュールを作って外に出たり何かする。まあ三ヶ月くらいしたら、仕事を探せるくらいの体力がついているかもしれないと見通しを述べていた。
 なぜ3ヶ月なのかはよくわからない。しかし昔も車の工場で働いていた時3ヶ月くらいで、ひととおり仕事の基本的な手順は覚えられた。しかし、ずいぶんきつい職場でストレスがたまっていて、もう続けられないということで辞めてしまった。それは派遣だったので派遣会社には「三交替で死にそうです。もう僕はしんどくて続けられません」といったが、工場の同僚や先輩の人には説明するとみっともなく感じられたので「仕事を変わるんです」といって残念がられていた。その後派遣会社から仕事の紹介はなかった。派遣会社には使えない人間と思われたのだろう。

 しかしそういう過去の工場での三ヶ月は置いておくとして、今は4月だから夏ごろには身体がある程度しゃんと動けるようになるだろうかと思う。不安ではある。でも先生がいったのは目安であるから、つまりは固く考える必要はない。駅の階段も息切れせず登れている。身体のコリも今はましである。すべては体の中や、気持ちの中で、少しずつ可動域が広がっているのかもしれない。それは正当なプロセスであり、生きていくために嫌なものは嫌、したいことはするという自由の拡大だけを考えていようと思う。
 僕の中に世の中はまちがっているとかいう、そういう選民意識のようなものがあるのはまちがいない。しかしそれは私の苦しみが残した意識の引き攣れかもしれない。いや心底卑しい人間なのかもしれない。それは自分ではなく誰かがわたしにとうてくるだろう。

 しかし先生に一応の目途を告げられて安心はした。もちろん私は医療の公式にのっとってリハビリする優等生患者なのかもしれないという思いはある。しかし先生はたぶん生きていく困難を一定程度和らげることで自己治癒力が出てきて自ら問題を考えられるようになるということしか考えていないはずだ。いや私が先生のアドバイスに従いにくい時は勇気を出して疑問を述べていたように思うし、先生の言葉の意味をどう採るか考えてきたのである。先生は薬物治療がある段階を迎えたところで、毎日ひとつでもいいからやることを決めてくださいといってきただけだから。

 だからべてるの家に関わる浦河赤十字病院の医師が「私は治さない医師です」といっていたことに今は少し違和感を感じている。仲間同士でのコミュニケーションや励ましや突きはなしが医師のそれより意味深い時があるのは事実である。私もデイケアをそのように利用している。時には不愉快やうまくいかないことも含めてそれが人生を感じることだから。
 また多剤服用の問題もある。だから医師を神のように権威のように崇めている趨勢に対して医師に多くを期待させない発言としては理解できる。

 しかし医療を脱構築するだけで充分なのか。いや医療の脱構築として「治さない医師」という表現は妥当なのだろうか?そこでその医師にとっての社会の中の働きはどう捉えられているのだろうか。
 もちろん「病気」として普通の人たちが異常性として排斥しようとしたらそれに対して「否」という必要がある。しかしその「否」という私は何者なのか。
 また、社会を構成し労働している人たちが「病気」を恐れるのはなぜか。それは乙武氏もいったように端的な暮らしていく上での不便さがある。また、今を生きる私たちにとって、病気は労働社会からの離脱を意味する。このことの是非をどう考えるか。私は偏見も含め、普通の人が病の恐ろしさをよく知っていると思うときもあるのだ。それは私自身の身体が快調になるに従い、やはりあのときは意味のある時間だったが不便ではあったと思っているから。それは私が元気な人たちの暴力性を身に付けたからか。

 わからないことは多くまとまらないが、「病気」を否定性として捉えないというのはある段階では必要なことである。しかしながら「病気」にはなおそれでも端的に様々な場面でマイナスに作用するのも事実なのだ。「治さない医師」というのは字義通りではなく、病気をマイナスではなくチャンスとしてみなすというのはわかる。だとしてもそこに依然として存在する不便をある暗さをどう考えるか。そう思うとき、何か釈然としないのも事実なのである。太宰治は「滅び」は「明るい」といった。障害や病を否定性としてのみ見なさないの先に、単なる明るさだけが残るのはなんとなくまずい。それは病気を実は根深く否定し見えないようにする明るさかもしれないという懸念がある。それはかつて当事者運動ということで私が働いていた知的障害者施設での経験にも重なる。そこでこの社会にとって、またこの私にとって、医療とは何か、それが日々の暮らしをどう分節し、どう捉えているか。そこを誤魔化してはいけないようにも感じるのだ。