畑谷史代「シベリア抑留とは何だったのか」を読み終わって。
畑谷史代の
シベリア抑留とは何だったのか―詩人・石原吉郎のみちのり (岩波ジュニア新書)
- 作者: 畑谷史代
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/03/19
- メディア: 新書
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戦争が人にその尊厳や生きることの意味を奪ったと一口に言う。しかしそれは石原が帰ったはずの日本、平和なはずの日本でも、シベリア抑留の記憶を語ることがしがたい状況があった。それは記憶そのものの語りがたさもさることながら抑留者への差別があったからだ。それがさらに罪意識を、仲間の死をみながら生き延びたという罪意識をもった抑留者にとってさらに語ることを困難にした。
だから抑留者として語りだした石原吉郎やあるいは鳴海英吉という詩人や、香月泰男やその他多くの発言したものの勇気は心打つものがある。70年代以降抑留は、どんどん世の中の前面から忘れられたとしてもだ。
ただ石原は孤独や罪悪感にさいなまれながらアルコール依存に陥っていく。これは多くの戦争だけでない事故・事件その他の災いに巻き込まれた人たちの孤立と苦しみと近接している。ここに戦時と平時の差異は少ないようにも思う。人間という生き物にとって、命や尊厳をぎりぎりまで削られることはPTSDという言葉もあるようにまさしく傷なのだ。時に致命的な。
だから、苦しみを負った人が命を絶たないために、傷を抱えながら、それを受けとめ、その周りのものそれぞれが分有することが必要だ。しかし、諸要素から成り立つ人の世でそれは相当に困難でもある。社会福祉で言うセルフヘルプやエンパワメントにおいて、社会関係のみならず、個人の魂の根底にある絆の回復が不可欠の要素だ。そしてその回復は様々な世俗的価値や現実のドロドロとどう向き合いやり過ごし、日常を、つまり生きることそのものを具体的に大事にすることだと思う。これは直接の被害・加害者のみならず、多く社会そのものの存在、そこにいる各個人の生存のありようを問い直すことも連動しなければならないとは思うのだが。この本の中にもあるように政治社会文化そのパワーゲームの中での生々しい痛みと困難。
しかし道遠し、それどころか力が要る仕事だから、どうすればいいのか、できないのか俺にはと途方にも暮れることもあるのだ。しかし石原やこの本に登場する人々に深く励まされるようにも思える。そういえば先に亡くなった俳優の緒方拳も抑留の地にいったことがあると聞いたことがある。
それに詩が素晴らしい。手にとって読んで欲しい。id:kaikajiさんも、この本に登場します。僕と年齢が近いのですね。畑谷さんもそんなに変わりません。30代後半から40代の人間も石原の峻厳な言葉に打たれるのはなぜか。著者の畑谷さんもそうですが、「人が人を傷つける」状況自体が辛いから戦争について考える、あるいはkaikajiさんのように戦争等の全体化自体が具体的なひとりひとりを押し流してしまう悲しみから戦争について考える。そういう素朴な心映えそのものをどう失わずに難しい課題を考えるか大事だと思った。石原の詩にも思わぬやさしさを発見します。素朴な心が大げさな何かに回収されず、己の生きている地面を見失わないことも戦争へのか細い抑止になると希望したい。
詩人や詩がまず最初にこの本で書かれている。それは詩が文学が実はそのように壊れやすいものをその壊れやすさのままそっと置くような芸術であるからだと思います。政治や倫理の議論に実はそれは欠けては困るもののように思います。