細々と彫りつける

Concerning poetry,radioactivity,disability,and so on(詩、放射能汚染、障害などについて)

国際ソーシャルワーカー連盟の声明文発見

http://72.14.235.132/search?q=cache:7gzkb6m1kB4J:www.jasw.jp/jaswtowa/IFSW_INRIdoc.doc+%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF&cd=3&hl=ja&ct=clnk&gl=jp



これを読んでみるとほぼ実態に沿った認識がある。とくに現場でのジレンマ、ソーシャルワーカーが置かれている苦汁の状況である。

序文より

ソーシャルワーカーのロイヤリティーがしばしば対立する利害のまん中にある実態。

ソーシャルワーカーが支援者として、そして統制者として機能する実態。

ソーシャルワーカーは実践する相手の人々の利益を守る義務がある。同時に彼らは効率性・実用性を社会的に要求されながら働く。その間で生じる葛藤。

・ 社会の中で、資源に制限があるという実態。


つまり社会の要求と自分が守るべきものとの葛藤である。引き裂かれといっていい「分断」である。これはしかし社会に生きる人なら誰でも感じる組織への順応への違和感でもある。共通の課題ではなく局所的な利害に左右され、実は必要なニーズやプロセスに言葉やものがあたえられていないのである。さらに以下も大切だと痛感。

3. 個々の人間を全体として捉える。― ソーシャルワーカーは家族・コミュニティー・社会と自然の環境の中で、全体としての人間に関心を払わなければならない。そして人間の生活のあらゆる側面を認識しようとしなければならない。


僕らは相手をきれぎれの職業や地位、あるいは印象といったものでとらえがちである。もちろんその人のすべてを知りうることはできない。しかし、知ろうとしなければいくらでも知らないことができてしまう。また、これは私たちがもつ習慣として深く関わるのを避けるというのがある。これはある種のマナーあるいは、実際の処世としては必要である。また知られたくないこともたくさんある。
ただ、それを考慮しながらも最大の努力がいる。難しいけれど。しかし知らなければ関わっても何もできないのだから。これは端的な事実である。逆に言えばあとにもいうように、住むところや暴力や戦闘からの安全の確保、その人らしさを知りながら、何も届かず提供されない場所が世界には数多くある事実を思い出させる。だからこそ以下のようなことがでてくる。



2. 多様性を認識すること―ソーシャルワーカーは、自分たちが実践する社会での民族的・文化的な多様性を認識し、尊重しなければならない。そこで個人・家族・グループ・コミュニティーに違いがあることを考慮しなければならない。
3. 資源の公正な分配―ソーシャルワーカーは資源が公正にニーズに従って配分されるように保証しなければならない。
4. 不当な政策や実践に挑戦すること―ソーシャルワーカーには、雇用者・政策決定者・政治家・一般市民の関心を、資源が不適切で、資源の配分・政策・実践が抑圧的・不公平若しくは有害な状況に向けさせる責務がある。


こういう文章を読むと僕は悲憤慷慨して終わってしまいがちなのだが。しかし正直言って、これが以前の職場でも今もうまくできていず、一日本国民としても正直ここまでできているかどうか怪しいのである。しかし日本の社会にも革命とかではなくまっとうな提言が明らかに必要な少子高齢化・経済不況があり、そこからのサービスの不足・権利侵害が起こっている。だからまた最初に戻って、では「そうできない」ジレンマ、葛藤をより多くの人に共有していく必要はある。


「序文より」を噛み砕いていうなら例えばこうだ。

○「現場ではこうなのだが組織の上層部がそれを認識しないからできない、あるいはやるなといわれる」

○「入所施設に働いているとどうにも限界があり、管理的つまりその人の自由をうばっているようにいつも感じる。しかし一体これはどうしたらいいのか」

○「行政に働きかけても財源がないの一点張りである」

ではこういう課題を共有するには?

6. ソーシャルワーカーは、職場で自分たちを専門職として、そして個人としてケアしていくのに必要な手段を講じておく必要がある。これは、自分たちが適切なサービスを提供できるよう保証するためである。
7. ソーシャルワーカーは、サービス利用者にかんする情報の秘密を守らなければならない。この例外は、より重大な倫理的要請(例えば生命維持など)のもとのみに正当化されるかもしれない。
8. ソーシャルワーカーは、次のものに対して、自分たちの行為が責任あることを認識しなければならない。それは、サービスの利用者・彼らの実践の相手仲間・雇用者・専門職団体・法律である。そこで、これらの責任の中で、葛藤が起こりうることも認識すべきである。
9. ソーシャルワーカーソーシャルワークの学校とすすんで協働して、ソーシャルワークを学ぶ学生たちが良質の実践的訓練と最新の情報を得られるように支援しなければならない。
10. ソーシャルワーカー仲間や雇用者との倫理に関わる議論を培い、そして関わっていかなければならない。そして倫理的な情報を踏まえた上で決定していく責任がある。
11. ソーシャルワーカーは倫理的配慮に基づいた決定の理由について、説明できるよう準備ができていなければならない。そして自分の選択と行動に責任を持たねばならない。
12. ソーシャルワーカーは雇用機関や自国で以下のような状況を創出するために努力すべきである。それは、この声明や自国の倫理規定(適用できれば) の原理が議論され、評価され、支持されるような状況である。


日本中の現場で求められ、だれもが必要だと思ったことが端的に書かれていると思った。しかしこれが実際にはなかなかうまく社会に発信されていない。それは日本社会の福祉に対する目、あるいは国家行政と国民の関係(我慢するような)も原因かもしれない。我々の社会はスティグマや偏見を改善する方向にはけっして動いていない。それが悲しいかな事実であるように思う。どうすればいいか。国際ソーシャルワーカー連盟には「話し合う」「誠実に取り組む」というふうに書いてある。シンプルだが物事を動かすのは政治力や官僚力もあるが、それより「信頼」を育てることにしかないのではないかと思った。難しいけどね。くじけそうだけどね。俺、燃え尽きたけどね。たいしたこともできてないけど。だからべてるの家向谷地生良さんが在阪の講演会(2009-02-18 - 細々と彫りつける)で質問した私に「国際ソーシャルワーカー連盟の倫理綱領を読んでみてください」といったのはこういうことだったのである。つまり世界共通のすくなくともソーシャルワーク(社会事業・社会改良と戦前戦後は言われていた。その前は慈善博愛運動など)の従事者の間でのスタンダードな認識がこうであるということなら、それは多く現場にいる人が知ると勇気づけられると思った。ソーシャルワーカーになる(かもしれない?)私も。だから日記に書いてみた。